気仙中学校のブログ

学区の島々①・跳渡島

 文化部調査によります。文化部員も卒業まであと3ヶ月。夏には今泉地区の歴史について調査しましたが,現在本校生徒の6割が住む長部地区についても島巡りを通して調査することにしました。来年度になると何と全校生徒の7割以上が長部出身という状況です。
 先日,下の写真のように気仙大橋の本設工事が新聞記事に載せられておりました。その中に「河川内とあって地盤は軟弱で支持層が40メートル程と地下深くにあったため打設に時間を要した…」とあります。即ち,縄文時代に氷河が融け出して海が内陸まで入り込んで行った頃は高田平野のその地点は現在の海水面より40メートルも深い海の谷底だったということです。そして現在よりも更に最大10メートル程の高さまで海水が陸地を洗っていたということになります。
 縄文海進が最も進んだ頃の地図の縄文遺跡の分布からすれば険しい断崖の続く地域の中にあって人々は漁や狩りに妥当な場所を見つけて住処としていた模様です。弥生遺跡は学区内からは見つかっていません。耕作に相応しい沖積平野がまだ形成されていなかった模様です。以前にも触れたように,学区の北側に当たる今泉地区も集落として発生しただろう900年前頃には漁村だったことになります。竹駒の金山から採り出された金等を海路で追波湾経由で平泉まで運ぶ舟が眼前を往航していた筈です。
 さて,島巡りの始まりは宮城県北と岩手県南との境となる陸前高田市気仙町福伏(ふっぷし)地先の「跳渡島(はねわたりじま)」です。地元の人たちの話では通称「丸山島」と言います。享保8年(1723),仙台藩主・伊達吉村公の気仙巡見に際して,この島にまつわるエピソードがあります。(東海新報より)
 …古文書によれば,同年2月,吉村公が気仙を巡見なされ,長部湊屋敷に立ち寄った。長部川河口では,地引き網の様子を上覧されたというから,その時のことと思われる。当時,福伏に小松助太郎という人がいて,殿様巡見の報を聞くや丸山の岩礁に漁に出て,ホヤを採って吉村公に献上した。ホヤと言えば,今も昔も海の幸,珍味としてもてはやされている。しかも,その数たるや1000個というから半端な量ではなかった。吉村公もことのほか喜ばれ,恩賞として丸山島を助太郎に下賜(かし)された。以来,島は小松家の所有となっている。ホヤ1000個献上の褒美に,島一つをボンと与えるあたりは,さすが藩主の権力の絶大さを物語るものだが,おそらく当時は,これに類した話は各所にあったに違いない…。
 昔話に登場する数字というのは言い伝えや伝説とも伴っているものと考えられます。言い伝え・伝説の類いはあくまでそれを信ずる人の心の中にあるのであり,史実を基に科学的根拠を踏まえ様々な視点から出来事を調査する事を本校文化部は調査活動の基本的な考え方と捉えています。金鉱の枯渇が騒がれ,領地を再検地した程の吉村公のことでありますから,むしろ海の宝庫として魚介類の存在をクローズアップしたものと思われます。かつ小松氏は担当者の親類縁者でありますが,気仙郡と本吉郡の漁業権争いの打開策として,その境界を示したのではないかと考えられます。
 なお,吉村公にまつわるのではないかと思われる地名が近くにありました。それはこの島の付近にかつては標高204メートル程の高さがありました笠置山です。吉村公の生まれ育った大原には笠置という地名が現在もあるのです。


2016/12/28 09:20 | 2016年12月