2016年12月の記事
学区の島々②・石川島
写真の島は地図では石川島と示されています。その先端に人工の小島が見えます。2枚目の写真のように,かつて太平洋セメントの前身,小野田セメントの福伏鉱山からベルトコンベヤーで石灰石を積み出す長い桟橋がありました。3枚目は海からの撮影写真です。円筒のコンクリート支柱だけが,被災前と変わらぬ景色を残しています。
この鉱山は昭和28年8月に石灰岩の大きな塊のような笠置山を露天掘りして開発が始められました。発破の際の避難壕が付近の各地に設置され,農作業で家族の手伝いをさせられていた担当者も時々利用する機会がありました。笠置山はいつの間にか地元では改名されたのか,石山と称されました。昭和41年3月に一旦は休止し,昭和49年7月に再開し,ほどなく閉山となりました。かつて標高204メートル程の山があったとは思えないほど山の形は変化しました。
4枚目の写真は鉱山跡の航空写真です。現在は鉱業権は放棄されて陸前高田市が取得し,昨年以来復興事業の土砂仮置き場用地としてダンプカー等が絶えず往来しています。本校校歌の冒頭で歌われております愛宕山を切り崩して,今泉高台造成工事が行われております。高田町方面へ土砂を運搬する役目を終えて昨年10月以降に巨大ベルトコンベアーや希望の架け橋は撤去されましたが,愛宕山の岩盤が当初の想定よりかなり固くて,なおかつ周辺地域へ工事の発破による振動の被害を軽減させるために強力な爆薬ではなく特殊な機械を用いて工事が続けられています。愛宕山から出た古生層礫岩(花崗岩やチャート等で構成されているとのこと)の岩盤破片を石山の露天掘り跡に運んでいる訳です。
地図では石川島とあるのですが地元民の中には鉱山に因んで石山島と呼ぶ声もあります。もしかすると地図の誤植かも知れないと思ってしまうのでした。
この鉱山は昭和28年8月に石灰岩の大きな塊のような笠置山を露天掘りして開発が始められました。発破の際の避難壕が付近の各地に設置され,農作業で家族の手伝いをさせられていた担当者も時々利用する機会がありました。笠置山はいつの間にか地元では改名されたのか,石山と称されました。昭和41年3月に一旦は休止し,昭和49年7月に再開し,ほどなく閉山となりました。かつて標高204メートル程の山があったとは思えないほど山の形は変化しました。
4枚目の写真は鉱山跡の航空写真です。現在は鉱業権は放棄されて陸前高田市が取得し,昨年以来復興事業の土砂仮置き場用地としてダンプカー等が絶えず往来しています。本校校歌の冒頭で歌われております愛宕山を切り崩して,今泉高台造成工事が行われております。高田町方面へ土砂を運搬する役目を終えて昨年10月以降に巨大ベルトコンベアーや希望の架け橋は撤去されましたが,愛宕山の岩盤が当初の想定よりかなり固くて,なおかつ周辺地域へ工事の発破による振動の被害を軽減させるために強力な爆薬ではなく特殊な機械を用いて工事が続けられています。愛宕山から出た古生層礫岩(花崗岩やチャート等で構成されているとのこと)の岩盤破片を石山の露天掘り跡に運んでいる訳です。
地図では石川島とあるのですが地元民の中には鉱山に因んで石山島と呼ぶ声もあります。もしかすると地図の誤植かも知れないと思ってしまうのでした。

県南駅伝試走
学区の島々①・跳渡島
文化部調査によります。文化部員も卒業まであと3ヶ月。夏には今泉地区の歴史について調査しましたが,現在本校生徒の6割が住む長部地区についても島巡りを通して調査することにしました。来年度になると何と全校生徒の7割以上が長部出身という状況です。
先日,下の写真のように気仙大橋の本設工事が新聞記事に載せられておりました。その中に「河川内とあって地盤は軟弱で支持層が40メートル程と地下深くにあったため打設に時間を要した…」とあります。即ち,縄文時代に氷河が融け出して海が内陸まで入り込んで行った頃は高田平野のその地点は現在の海水面より40メートルも深い海の谷底だったということです。そして現在よりも更に最大10メートル程の高さまで海水が陸地を洗っていたということになります。
縄文海進が最も進んだ頃の地図の縄文遺跡の分布からすれば険しい断崖の続く地域の中にあって人々は漁や狩りに妥当な場所を見つけて住処としていた模様です。弥生遺跡は学区内からは見つかっていません。耕作に相応しい沖積平野がまだ形成されていなかった模様です。以前にも触れたように,学区の北側に当たる今泉地区も集落として発生しただろう900年前頃には漁村だったことになります。竹駒の金山から採り出された金等を海路で追波湾経由で平泉まで運ぶ舟が眼前を往航していた筈です。
さて,島巡りの始まりは宮城県北と岩手県南との境となる陸前高田市気仙町福伏(ふっぷし)地先の「跳渡島(はねわたりじま)」です。地元の人たちの話では通称「丸山島」と言います。享保8年(1723),仙台藩主・伊達吉村公の気仙巡見に際して,この島にまつわるエピソードがあります。(東海新報より)
…古文書によれば,同年2月,吉村公が気仙を巡見なされ,長部湊屋敷に立ち寄った。長部川河口では,地引き網の様子を上覧されたというから,その時のことと思われる。当時,福伏に小松助太郎という人がいて,殿様巡見の報を聞くや丸山の岩礁に漁に出て,ホヤを採って吉村公に献上した。ホヤと言えば,今も昔も海の幸,珍味としてもてはやされている。しかも,その数たるや1000個というから半端な量ではなかった。吉村公もことのほか喜ばれ,恩賞として丸山島を助太郎に下賜(かし)された。以来,島は小松家の所有となっている。ホヤ1000個献上の褒美に,島一つをボンと与えるあたりは,さすが藩主の権力の絶大さを物語るものだが,おそらく当時は,これに類した話は各所にあったに違いない…。
昔話に登場する数字というのは言い伝えや伝説とも伴っているものと考えられます。言い伝え・伝説の類いはあくまでそれを信ずる人の心の中にあるのであり,史実を基に科学的根拠を踏まえ様々な視点から出来事を調査する事を本校文化部は調査活動の基本的な考え方と捉えています。金鉱の枯渇が騒がれ,領地を再検地した程の吉村公のことでありますから,むしろ海の宝庫として魚介類の存在をクローズアップしたものと思われます。かつ小松氏は担当者の親類縁者でありますが,気仙郡と本吉郡の漁業権争いの打開策として,その境界を示したのではないかと考えられます。
なお,吉村公にまつわるのではないかと思われる地名が近くにありました。それはこの島の付近にかつては標高204メートル程の高さがありました笠置山です。吉村公の生まれ育った大原には笠置という地名が現在もあるのです。
先日,下の写真のように気仙大橋の本設工事が新聞記事に載せられておりました。その中に「河川内とあって地盤は軟弱で支持層が40メートル程と地下深くにあったため打設に時間を要した…」とあります。即ち,縄文時代に氷河が融け出して海が内陸まで入り込んで行った頃は高田平野のその地点は現在の海水面より40メートルも深い海の谷底だったということです。そして現在よりも更に最大10メートル程の高さまで海水が陸地を洗っていたということになります。
縄文海進が最も進んだ頃の地図の縄文遺跡の分布からすれば険しい断崖の続く地域の中にあって人々は漁や狩りに妥当な場所を見つけて住処としていた模様です。弥生遺跡は学区内からは見つかっていません。耕作に相応しい沖積平野がまだ形成されていなかった模様です。以前にも触れたように,学区の北側に当たる今泉地区も集落として発生しただろう900年前頃には漁村だったことになります。竹駒の金山から採り出された金等を海路で追波湾経由で平泉まで運ぶ舟が眼前を往航していた筈です。
さて,島巡りの始まりは宮城県北と岩手県南との境となる陸前高田市気仙町福伏(ふっぷし)地先の「跳渡島(はねわたりじま)」です。地元の人たちの話では通称「丸山島」と言います。享保8年(1723),仙台藩主・伊達吉村公の気仙巡見に際して,この島にまつわるエピソードがあります。(東海新報より)
…古文書によれば,同年2月,吉村公が気仙を巡見なされ,長部湊屋敷に立ち寄った。長部川河口では,地引き網の様子を上覧されたというから,その時のことと思われる。当時,福伏に小松助太郎という人がいて,殿様巡見の報を聞くや丸山の岩礁に漁に出て,ホヤを採って吉村公に献上した。ホヤと言えば,今も昔も海の幸,珍味としてもてはやされている。しかも,その数たるや1000個というから半端な量ではなかった。吉村公もことのほか喜ばれ,恩賞として丸山島を助太郎に下賜(かし)された。以来,島は小松家の所有となっている。ホヤ1000個献上の褒美に,島一つをボンと与えるあたりは,さすが藩主の権力の絶大さを物語るものだが,おそらく当時は,これに類した話は各所にあったに違いない…。
昔話に登場する数字というのは言い伝えや伝説とも伴っているものと考えられます。言い伝え・伝説の類いはあくまでそれを信ずる人の心の中にあるのであり,史実を基に科学的根拠を踏まえ様々な視点から出来事を調査する事を本校文化部は調査活動の基本的な考え方と捉えています。金鉱の枯渇が騒がれ,領地を再検地した程の吉村公のことでありますから,むしろ海の宝庫として魚介類の存在をクローズアップしたものと思われます。かつ小松氏は担当者の親類縁者でありますが,気仙郡と本吉郡の漁業権争いの打開策として,その境界を示したのではないかと考えられます。
なお,吉村公にまつわるのではないかと思われる地名が近くにありました。それはこの島の付近にかつては標高204メートル程の高さがありました笠置山です。吉村公の生まれ育った大原には笠置という地名が現在もあるのです。

2学期終業式
県南駅伝壮行式
御返地中学校からしめ縄飾り
クリスマスケーキ作り
読書感想文コンクール
舟越桂さん 展覧会

舟越さんは、岩手県出身の彫刻家の舟越保武さんの息子さんです。そして、昨年度まで本校に勤務していたスクールカウンセラーの佐藤文子先生のお知り合いで、その御縁で今回の展覧会が実現しました。
「水に映る月蝕」「言葉をつかむ手」「冬の本」「森へ行く日」などの著名な木彫作品やデッサンなどが会場の雰囲気に調和するように展示され、1年生から順に1時間ずつ鑑賞会が行われました。1年生からも「首が長いけれど人らしさが出ていて美しいと思いました。」と美の感性を醸し出すコメントがあり、白鴎祭以来の文化の香高い1日となりました。
クラスマッチ
