気仙中学校のブログ

2017年1月の記事

書き損じハガキ回収

生活委員会の呼びかけで、先月から書き損じハガキを回収しました。皆さんのご協力のおかげで115枚の未使用ハガキと5枚の未使用切手が集まりました。岩手県身体障害者福祉協会と岩手県視覚障害者福祉協会へ届けます。ご協力ありがとうございました。(sas)


2017/01/30 14:50 | この記事のURL2017年01月

学区の島々⑦・野島・鵃島

 本校は「海の子絵画」展への取り組みの成果が認められ,平成17年度より6年間に渡って入選が続きました。特に20・21年度は2年連続学校賞を戴きました。右は平成22年度岩手県教育長賞受賞の小林さんによる作品,左は同じく入賞の菅野さんによる作品で,インターネットに残されておりました。
 それよりかなり以前の昭和45年までは10月の土曜日を利用して全校で写生大会というものがありました。それぞれが長部の海岸に散らばって取り組んだのですが,学年が上がるに連れて青春を謳歌するひとときの模様でもありました。特に人気のあった風景が野島・鵃(みさご)島でした。まるで松島のような風景が連なっています。付近は格好の漁場でもあります。文化部有志が1学年の秋の写生大会に描いた絵はその後,1学年の冬休みに描いた今泉天神杉の絵共々,永久学校保存となってしまいました。もう一つ,鵃島の奥に地元の人達が「一本松」と呼ぶ岩礁がありますが,6年前以後ご覧のように変化しました。
 本校の校章や校名旗ではウミネコを表していますが,カモメであるとの声もあって文化祭の名称も白鴎祭と命名されております。体育着については上が各学年ごとに紺・緑・臙脂色で下は白の体操ズボンだったところ,担当者の入学年度から上下青となりました。大概の仲間は体育の時間だけ着用して部活は先輩のお下がりでした。原因はモンペみたいだったから!?それまでの肩下げ鞄や手提げ鞄からスクールザックに移行した年でもありました。毎日遠足かと言われました。以後,体育着のスタイルは変化しても基本色は青でした。この青は勿論,太平洋・広田湾の海の色です。
 所謂スクールカラーというのも平成初期には既に全校応援等の機会にはメガホンや応援旗では緑色が採用されていたようです。松原の松や愛宕山の杉の色や県境の山の色を連想する場合もあるでしょうが,地元出身の担当者としては思わず海岸沿いの魚付林を連想するのでした…。


2017/01/25 11:00 | この記事のURL2017年01月

鯉のぼり(名古屋市交流3)

 名古屋市絆交流の最終日に訪問した名古屋市立山王中学校から、そのときの交流会で制作した「鯉のぼり」3匹が気仙中に送られてきました。今朝の全校朝会で、生徒会の皆さんが、その「鯉のぼり」を全校生徒に紹介しました。陸前高田市と名古屋市の代表が、「鯉のぼり」の布地に、全員の手形を押してウロコを一つ一つ描いた作品です。制作に携わった全員の、交流に対する強い思いが込められています。山王中学校の皆さん、どうもありがとうございました。
 校舎内にも飾ってありますので、学校にお越しの際は是非ご覧になってください。


2017/01/24 14:40 | この記事のURL2017年01月

学区の島々⑥・鯨岩(地元の郷土芸能について)

 左手前が鯨岩です。その沖に子鯨のような岩礁も。その向こうに野島が見えます。かつては満ち潮の時に潮吹きが見られましたが,地震による地盤沈下の影響がまだあって,干潮の時以外は潮吹きが多かれ少なかれ見られます。

 さて,今回は長部の郷土芸能について以下に挙げられるものがありまして紹介します。資料提供は市立図書館及び各地域の区長さんからの談話によります。

「二日市梯子寅舞」(陸前高田市指定文化財)
 今から167年前の嘉永3年5月4日(1850年6月13日)の明け方,長部村長圓寺境内に雷のような大音響とともに重さ約135kgの,隕石が落下しました。日本最大の石質隕石「気仙隕石」がそれです。村の人たちは大変驚き,何か悪いことが起こる前ぶれではないかと恐れました。そこで,厄よけの「悪魔払い」と,「地這い(はい)踊り」「梯子(はしご)踊り」があります。日本最大の気仙隕石の落下がきっかけとなり生まれた二日市寅舞。それは隕石とともに大変貴重な文化財といえます。地域に住む本校生徒も大勢参加しています。先日の7日正月も各地を踊って鳴らして練り歩きました。なお,本校文化部では昨年度の文化祭で「気仙天隕石物語」の著者・宮城隆興先生(長圓寺の前住職様で中学校国語や技術の先生も経験されておりました)に因んで,その横書き版等を発表していました。

「長部湊七福神舞」(陸前高田市指定文化財)
 大正の初めに地元の小泉春吉という人が広田町根岬に古くから伝わる七福神舞を伝授され,これを長部地区の有志に伝えたのが始まりです。七福神舞は,大黒天,恵比寿,毘沙門天,福禄寿,弁財天,寿老人,布袋和尚の順で踊られます。耳たぶや長いひげ,よろいの衣装や女性のかつらなどを見につけ7つの神に扮し,生き生きとユーモラスに踊ります。五穀豊穣・大漁祈願をし,合わせて家内繁盛・厄払いの行事として行われています。

「古谷大漁歌い込み」
 始めの演目に笠踊りがあります。次に櫂と被りを使っての大漁歌い込みです。その次に河内男節の披露があります。最後に再び笠踊りがあります。中村さんの指導により,郷土芸能として磨きがかけられたとの区長さんからの談話でした。

「双六花笠踊り」
 始めの演目は通称「しゃらりと」,次に組踊りの大漁万作,最後は華やかな花笠を持った昭和30年から演目に加えた「双六おばこ」です。昭和30年に取り入れた当時の頃まで長部各地で夏に七夕祭りが行われ,七夕飾り作りや七夕囃子が盛んに行われていた,との区長さんよりお話。その華やかさが,この踊りに表現されています。

「要谷たるこ踊り」(陸前高田市指定文化財)
 明治30年ごろに気仙村要谷の船大工であった東海林万蔵という人が,鹿折村波板(現気仙沼市)に出稼ぎをしていたとき,その土地の郷土芸能のたるこ踊りを習い,要谷地区の人々に伝えたのが始まりといわれています。この踊りは,踊り手が,特製の一升樽を持ちながら踊ることから「たるこ踊り」と名付けられています。踊りは女性によるもので,「打ち込み」(櫂(かい)を持って踊る),「本座(ほんざ)」(本踊り,樽を持って踊る),「ひきは」(扇を持って踊る)の順で踊られます。囃子は「拳囃子(けんばやし)」「李陥(りとう)囃子」「羯鼓(かっこ)」からなっています。男性の囃子方にも妙味があり,けいこでも重点が置かれています。

「福伏笠置山相撲甚句」
 祭り太鼓で入場します。演目は始めに扇子を持って拳囃子,次に笠を持って笠踊り。相撲甚句は「西,気仙川~」「東,笠置山~」と始まります。震災後には全国各地からの支援・提供によって笛・太鼓・衣装など復活の資材が整ってきました。(区長さん談)

「上長部大名行列」
150年ほど前に始まりました。この当時からこの芸能は神社例祭神輿行列の先導を務めます。二日市寅舞はその殿を務めています。伊達政宗公や伊達吉村公等が当地を訪れた際の様子を模倣しつつ,慶長三陸津波からの震災復興を牛馬の牧畜産業で為し得た上長部地区のご先祖様の意気込みが伝わります。一昨年の例大祭では,東日本大震災に関わって,これまでの多大なご支援ご協力に対して「感謝の気持ちを伝えるため」伝統継承されてきた大名行列を行ったと区長さんよりのお話でした。地域に住む本校生徒も大勢参加していました。


2017/01/20 08:30 | この記事のURL2017年01月

学区の島々⑤・カツカバタ

 要谷漁港は福伏地区・要谷地区・双六地区・古谷地区にそれぞれ岩壁を持っています。干潮の際には様々な岩が露出します。写真はカツカバタと呼ばれる岩礁です。少し向こうに鯨岩が見えます。
 かつて付近に要谷舘という城がありました。千年以上続くと言われる荒木一族の大本家である大上家も関係があり,荒木宮司のご先祖様はこの館にあって愛宕神社を城内に奉っていました。源氏が鎌倉に幕府を置いてからは鎌倉時代以来治めていた葛西氏を主君とする千葉氏の一派が長部氏を名乗って二日市城を居を構え,その支城として要谷舘があったとのことです。
 この館に関わって「気仙一揆」という騒動がかつてあったとのことです。1436(永享8)年の秋,気仙郡と本吉郡の間に沿岸海区権益の問題は度々館主間の摩擦の要因となって争われたそうです。せまい耕地の多い広田湾沿岸舘主にとって眼下に広がる海の資源は大事な財源であったとのこと。それは江戸時代になっても千町田と言われるほど水田の多い小友村とか,高田松原を育てた上での新田開発の成果が展開された高田村以外は同様であったとあります(気仙郡吉田大肝入文書より)。
 舘主千葉安房守宗胤に臣従していたが実は大槌・遠野等の南部勢と密約を交わしていた嶽波太郎・唐鍬崎四郎が舘を急襲し,宗胤は船で脱出し登米の太守のもとに走ったとあります。それが発端となり葛西太守満信は江刺・磐井の軍勢も動員して要谷舘を奪還し,気仙全域が混乱から回復し,戦場は大槌に移った後に終結したとあります。(「陸前高田市の歴史」細谷敬吉氏・著より)
 浸蝕されにくい古生層礫岩の磯辺が続く長部海岸の中でも取り分け岩礁が広がっているこの付近は,地元の人にしか分からない水路があります。当時の舘主もそれを利用して脱出していたのでしょうか。
いずれ鎌倉・室町・戦国期において葛西領の外縁に位置する気仙郡の騒乱は他領からの侵攻を招くおそれがあるし,敵の敵は味方とばかりに舘主間の思惑も入り乱れた頃なのでしょうか。
豊臣秀吉の奥州仕置きによって葛西氏を滅ぼした後には気仙郡からは二日市城以外の城が廃棄されたのですが,愛宕神社は大上家の裏に移り,代わって八坂神社が城跡に建てられました。
 例大祭で神輿渡御の際にはその下を通過します。郷土芸能祭組も共に通過します。元々七夕の夏祭りは地元で行われておりましたが,それを除くと江戸時代までは祭での芸能は他の地域で芸能を主な仕事をとする者を呼んで披露されていた模様です。
 特にも江戸時代は江戸を除いては,米の需要を賄えるだけの生産がそれ程なかったり飢饉だったりのせいか,全国的に人口の増減がほぼ一定に近いとあります。岩手県漁業史によりますと1780(安永9)年時点での統計資料では長部村1029人,今泉村717人,浜田村794人,勝木田村359人,小友村1479人,広田村1560人。高田村については記載がありませんでしたが,淡水漁業における力関係や今泉村同様の川宿としての規模や年貢の石高を考えるならば1000~1300人位だったのでしょうか。
 幕末以降,貨幣経済の進展と共に富が蓄えられ,人口も増えて生活にもややゆとりが増えて,自分等で豊漁・豊作を祝う機会も増したのでしょうか。


2017/01/18 14:00 | この記事のURL2017年01月

実力テスト

 本日、全学年で5教科の実力テストが行われました。3年生にとっては最後の実力テストです。受検当日さながら、真剣に問題に取り組んでいました。初詣の御利益・・・、いや、冬休み中の努力は実を結んだでしょうか。
 努力はうそをつきません。本番に向かって、努力のレベルをまた少し、アップさせることを、切に願います。


2017/01/17 17:40 | この記事のURL2017年01月

感謝状

 10月1日のいわて国体の開会式。みんなの思いが一つになって、とても感動的な式典となりました。本校でも1、2年生が「復興支援感謝団」として、全国から集まった選手の皆さんやテレビで開会式を見ている全国の皆さんに「ありがとう」のメッセージを一生懸命伝えてきました。
 1月に入り、いわて国体実行委員会(達増知事が会長)から、今度は「感謝団」にも感謝したいということで、立派な感謝状が届きました。見事な応援活動が、「広げよう感動。伝えよう感謝。」のスローガンの実現、大会の成功に大きく寄与しましたという内容の感謝状です。感謝への感謝でした。感謝状は、生徒会長の千葉大輝さんに手渡されました。


2017/01/17 17:30 | この記事のURL2017年01月

名古屋市交流2

 名古屋市絆交流の報告です。
 本校からは、生徒会長の千葉大輝さん、応援団長の大谷海雅さん、書記の吉田珠樹さん、2年学級会長の櫻井美南海さんの4名が代表として参加しました。
 初日は午前中のうちに名古屋に到着し、岩手県人会の皆さんにお出迎えいただきました。その後、市長さんや市議会議長さんを表敬訪問し、午後は、名古屋市の代表の皆さんと意見交換会や夕食会で交流を深めました。2日目は全日、市内の企業で職場体験学習、夜には岩手県人会の皆さんとの夕食会が行われました。最終日の3日目は、名古屋市立山王中学校で交流会を行いました。その後、科学館を見学し、県人会の方々に見送られ帰路につきました。この日も冷え込みが厳しく、飛行機の運行が懸念されましたが、予定通り午後8時すぎ、無事市役所に到着しました。
 4人の代表の皆さんは、交流団員として積極的に行動し、コミュニケーションをはかり、交流活動を大変意義あるものにしました。お疲れ様でした。


2017/01/17 09:10 | この記事のURL2017年01月

始業式

 16日から3学期が始まりました。インフルエンザが心配されましたが、欠席者もなく、全員が元気に登校しました。
 始業式では、各学年の代表が3学期の決意を発表しました。冬休みが終わったとたんに、冷え込みが厳しくなり、体育館で白い息を吐きながらの始業式となりましたが、どの学年も、3学期の目標をしっかりと見定め、みんなで力を合わせて、たくさんのハードルを乗り越えていこうという意気込みを見せました。


2017/01/17 08:40 | この記事のURL2017年01月

学区の島々④・穴空島

 広田湾内の長部浜には素晴らしい景観の小島があちこちに点在していると3年前の東海新報の特集欄にありました。要谷漁港から見るとただの岩にしか見えないのですが,角度を変えると確かに海水の浸食によってぽっかり穴の空いた島です。6年前の大津波にも耐えて正(まさ)しく「一本松」が現在も南側の岩肌に這い残っています。3枚目は7年前に撮影した写真,4枚目は約100年前に当地の吉田画伯によって描かれた絵画です。
 『陸前高田市地名考』(細谷敬吉氏・著)による長部浜の「七島七明神」は「きわ島」「かき島」「籬島」「沖籬島」「へかみ島」「穴空島」「野島」がそれで,各島に明神様を祀り,これを七明神と言い,いずれも浜の安全と豊漁を祈願するもので,弁財天が安置されていたとあります。前述の荒木宮司による「七島七明神」でもこの島は穴空島の名で挙げられています。チリ地震津波復興事業として昭和43年夏に開通された県道福伏湊線(通称・海岸道路)の工事の際に,明神様は島から移動し,道路側に上陸させられました。
 海岸道路や堤防の工事が進展される以前,付近の磯辺・浜辺は他同様に,季節を問わず子ども等の格好の遊び場所でもあり,サッパ船を浜に曳く等の手伝いのためもあり,大勢の子どもがいました。担当者も海や海岸での遊びは勿論,現在の小中高生の親御さんに当たる年代の人達(当時彼らは更に幼い保育園児~小学校低学年)の相手も磯辺・浜辺でしていた覚えがあります。その逆に現在の小中高生の祖父母さんに当たる年代の人達から面倒を見て戴いた覚えもあります。そのような人間関係が地域のいずれの世代にもあるせいか,震災直後も避難所では地域全体が家族のような共同生活ができました。それぞれに役割が分担され,当番活動も行いました。当初の5日間は昼も夜も出入りがあったり町内で唯一残った消防団屯所が近くにあってその連携もあったりして焚き火を絶やさなかったので,宿直も交代で行いました。世帯の代表者だけでなく,多かれ少なかれ他の方々も共同生活をする上で様々に活動をしていました。担当者の場合は平日の日中が本校勤務なので,朝は4時から1時間番屋整理・物資の搬入等を2ヶ月程,夜は7時から3時間情報連絡・夜警等を1ヶ月程,休日の買い出しは避難所からの依頼分は2ヶ月程,薪作りは1年程など。地元の避難所で支援にあたった地元の方と遠野足湯隊の方のお話です…。

「日頃から危機対応意識が高く,一人ひとりの心がけの賜物だと思います。昔からこのあたりは漁村で,男達は遠洋漁業で何ヶ月も帰ってこないという家がたくさんありました。残る者たちは日頃から防災訓練をしっかりしていましたし,何かあればすぐに連携しあって自発的に動くことが出来ました。これまでに色々なサバイバル経験を積んでいらっしゃいます。危機に陥ってもあわてません。経験豊富な方々が臨機応変にかまどでご飯を炊き,お湯を沸かし,そのお湯も色々なことに循環活用して急場を見事に凌いで下さいました。」

「2011年5月1日(日)避難所から要望があり行きました。要谷公民館54人。自治がしっかりしていています。避難所の雰囲気がとてもいい。仲がいい。生活時間のめりはりがある。食事。朝と夜は,家がある人がローテーション(交代制)で自炊にきます。*避難所の人が一人います。メニューは,担当の方が年配だと,煮物系,料理の食材の応じて決められるようでした。昼。パン。-中略-整理整頓,掃除。布団は片付けて,まとめられ,寝るときに敷く…等。食事の時間は配膳された場所でとられています。子供の避難者は6名しかいませんが,雰囲気がいいので近所とか避難先親戚宅とか他の避難所とかから遊びにくる子供達もいます。子供達を叱れる大人がいます。80代のおじいさんが,元気な方で2時間かけて風呂を沸かす係。(この風呂は4月14日に北海道からの支援によって設営され,翌年3月下旬まで利用させて頂きました。それに伴いあの日の夜から地区民で公民館脇に設営を始めた番屋も何度もリフォームを繰り返しながら1年もの間,会議場・湯上がりの集会所・お茶飲みの場所等として活用されました。)避難所で,何もすることがないのは辛いことです。避難所にいる人達に役割を与え,相互支援ができる自治会は生活している実感も得られ,孤独になりません。この避難所の皆さんは,ますます元気になりますね。」(2011.5.2遠野足湯隊のブログより)

 …震災後,中高生が地域にいる時間が少なくなったり地区民の移動があったり,日常生活を取り戻すまでだいぶ間があったりしているのですが,地域の祝い唄の一つになる「たるこ踊り」郷土芸能活動を継続して行こうとする機運が高まり,昨年の学区の敬老会で復活させることができました。一昨年の月山神社例大祭が切っ掛けとなりました。本校の生徒の中にもそれに参加し出して何人かが地元で習い始めております。震災直後から鎮魂や厄払いを意味する郷土芸能は各地で復活しておりますが,豊漁・豊作等を祝う芸能活動も震災復興の兆しに伴って地域の絆の証として見直され復活され出してきたということです。


2017/01/12 10:50 | この記事のURL2017年01月
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