気仙中学校のブログ

2017年2月の記事

後期生徒大会

今日の6校時に、後期生徒大会が開催されました。生徒会活動総括、専門委員会総括、部活動反省、学級活動総括、会計報告がなされました。3年生からの質問、意見が多く出され、来年度の活動にエールが送られました。最後に生徒会執行部から京都の培良中学校からの手紙が紹介されました。毎年、この時期に街頭募金をして気仙中学校へ義援金を送ってくれています。思いが伝わる手紙でした。来年度で気仙中最後の1年となりますが、決意を新たにしたよい生徒大会となりました。(sas)


2017/02/28 19:20 | この記事のURL2017年02月

バレー県選抜大会優勝

2月11日~12日に北上市において開催された「グリーンピア三陸みやこ杯 平成28年度第32回岩手県中学校選抜バレーボール大会」で優勝することができました。応援に駆け付けてくださったたくさんの方々に大変感謝しています。ありがとうございました。今後も更に頑張っていきたいと思います。(miki)


2017/02/13 12:00 | この記事のURL2017年02月

学区の島々⑪・一本柳御代ヶ島

 下に示されている地図は900年程前の広田湾奥付近の海岸線を,2010年度の地図に当てはめた物です。現在の地名によれば奈々切から中堰にかけて一本柳御代ヶ島があったとされています。「御代ヶ」は「冥加」,神仏のご加護を意味するそうです。写真①と②は諏訪神社・前宮司河野允幸氏です。老練町長・河野俊覚先生のお孫さんに当たります。以下は陸前高田市広報の地元学のススメです。

 …気仙町町裏地区に気仙川漁業の大漁と安全を祈願する神社があると聞き宮司の河野さんを訪ねた。住宅が密集する路地にある鳥居をくぐり,-中略-境内を目指して124股の階段を上ると,見晴らしの良い高台に社殿は構えられていた。境内から望むその大パノラマは,今泉地区はもちろん高田松原までもが一望できる。当神社は永暦元(1160)年,長部の清右衛門という人物の世話により,信州諏訪大社より御分霊。-中略-守護神として気仙川河口の一本柳御代ヶ島に勧請しました。社殿が現在の場所に移ったのは宝暦8(1758)年と伝えられています。
 諏訪神社は元来,現在の場所ではなく『一本柳御代ケ島』という島にあったというのだ。文応元(1260)年7月の大洪水により社殿は流失し,その後,洪水の度に社殿は流され,川の流れも一変し,ついには御代ヶ島も水中に没してしまった。一本柳御代ケ島は,今となっては幻の島となってしまった。
 式年大祭,例祭はともに10月27日に行われ,4年に一度の式年大祭では,手踊りや七福神,虎舞が盛大に奉納される。昔は例祭日の朝,今泉川で獲れた鮭は残らず神前に奉納するというしきたりがありました。これを『諏訪の一川曳き』と称しました。-以下略-

 地図によれば900年前は学区の殆どは漁村だったことになります。おそらくは貞観11(869)年津波以後,比較的大きな集落のあった上野(後の高田)や奈良時代以来の金山のあった竹駒の人々にとって,海と共に対岸の今泉地区は安泰を願い何等かの宗教的儀式が行われた神々の鎮まる聖地だったのではないでしょうか。弘仁元(810)に現在の泉増寺建立地に三姿森三所大権現が祀られ,正歴4(993)年に今泉天満宮が御分霊したとあります。当時の神社分霊というのは立派な建物を創るというよりも,より大自然の中にあって神々しい位置を奉るというものと聞きます。既に金山があった竹駒方面から今泉の各種神社等が分霊されて行ったという事はある程度の人口を持つ集落の竹駒や上野の民,あるいは中世の頃に鶴崎城の関係者によって開拓された聖地なのではないでしょぅか?建武2(1335)年と定応元(1460)年に三姿森三所大権現について,文明13(1481)年に今泉天満宮についての記述が残されています。この頃に二日市城の支城が築かれ,陸上交通の発達により川宿集落としての八日市(後の八日町)と新町(後の荒町)が形成されたと考えられます。
さて,南の方からの開拓もあったかも知れない根拠があります。永暦元(1160)年長部浜七嶋七明神別当生家当主清右衛門により,諏訪神社を分霊,米沢出身矢作村の明連院を別当にしておいたとあります。矢作村とありますが,当時は二日市城付近同様の,竹駒海岸傍の謂わば地域の政治経済の中心地の一つであり,清右衛門の勢力が拡大されて行ったことになります。河口付近への漁場開拓の証なのでしょうか?七嶋七明神も「7」という数字に拘らず多くの浜の多くの島にそれぞれ龍神や弁財天,恵比寿様等を奉っていると考えるべきでしょう。沖籬島(恵比寿鼻)・籬島・鵃島・野島・穴空島・笹山(大海津見神社)・石川島・跳渡島等に続いて一本柳御代ヶ(冥加)島に諏訪神社や川口神社(時代とともに位置が変化した)も双六の生家によって鎮座されたのでしょう。長部浜生家は今で言う網元のような,あるいは水軍の長のような立場だったのでしょうか。
 では今泉の民は何処に?伝説では900年前に平家の落人が登場します。忽然と壇ノ浦の戦いの68年前に内野辺りに登場したのでしょうか?一つ考えられることは,当時は山は神々の鎮まる神聖なものとしてあるものであって,例え戦(いくさ)の最中であろうとも戦場とは見なされず,山の中を追撃追走することは許されなかった筈という習わしを聞きます。(源義経は例外だったから連戦連勝だったのでしょうか?)従って今泉の内野から愛宕山周辺には他の人里を離れて,いつからか何処よりの者達が何らかの由縁で移住し,原住民の漁民に受け入れられ,ともに独立した自給自足の営みをしていたかも知れないという事です。眼前の一本柳御代ヶ島付近で長部の漁民が漁をし,対岸では平泉藤原氏の支配によって金鉱採掘がされて人夫や牛馬が往来していようとも,古代の我が国では現在の状況・感覚とは違う時空の流れがあったかも知れません。また,当時は藤原氏の支配とは言え,次の世の鎌倉時代にあるような守護・地頭の統制とは別に天皇による公地公民,寺社等による荘園制とか言うものによって何等かの治外法権も存在していたのかも知れません。確かな史実を追求しようとすれば幾多の情報が錯綜するものです。それは兎も角,かくありたいという願いと,それと思う後世の人々の想いを汲むべきと私は思うのです。
 以上のようなことをまとめますと,今泉の地とは即ち歴史的に見ると,近隣の地域からすれば新天地であり,津波・洪水等の度に何度も再開拓されて来た地ということに他なりません。そして今回の震災にも再び復興に向けて立ち上がろうとしているところなのです。

 写真②にあるように,例祭日に入り口とは別の場所に,幻の島・一本柳御代ヶ島に向けて御神旗が立てられます。河野前宮司が絶えず守ってきた慣例について「慈しみ深き」という歌(コンバース作曲「星の世界」として有名)を担当者はいつも想起します。七夕という,星祭りの盛んな当地ではありますが,今泉仲町有志によって七福神,虎舞の復活もなされようと昨年のニュースや新聞に揚げられています。なお,清右衛門の遠い遠い子孫の一人が本校文化部部長の佐々木君です。


2017/02/10 10:20 | この記事のURL2017年02月

バレー部壮行式

今日の放課後にバレー部の壮行式を行いました。11日~12日まで北上総合体育館で開催される県選抜大会へ出場します。ベストを尽くし活躍することを願って応援をしました。がんばれバレー部!(sas)


2017/02/09 17:10 | この記事のURL2017年02月

学区の島々⑩・田の浜(川口神社)

 上の写真は昭和42年頃の気仙川河口で手前が田の浜と呼ばれた海岸です。380年前の大洪水で気仙川の流れが変化して数十年で砂浜が形成された模様です。対岸の高田松原同様に,本校卒業生の中で「ああ青春を謳歌した浜辺だ」と思い浮かべたなら,還暦を過ぎた方の筈です!?校地の近くでありながらの人気スポットでした…。下の写真は昭和46年の秋に撮影しました。明治三陸津波からの震災復興として上野英俊方丈様のお力添えで拓かれた田の浜産業道路は当時の気仙中生にとって,これまた青春の通学路(!?)でした。ある時期は世情が不安になり,否応なく男子らが女子らと一緒に帰る事を指導されたので,文化系の部に所属する女子らは体育系の部活が終了するまで堤防の観客席で待ったものでしたが,それは青春というより要請事項の遂行ですか。

 この付近は二日市城のあった丘の北側に位置して420年程前から30年間に渡って御足軽鉄砲組の屋敷集落が軒を並べていたと数多くの文献にあります。伊達政宗公の家臣が代々気仙で唯一残った城の二日市城に配置され,55人もの兵が南部領との境目取り締まりということで家族共々住まわせられたとあります。その後,二日市城の歴史が終わったところで寛永7(1630)年に人数を24人に減じて,後に鉄砲町と言われる地に居住しました。幕末まで警護に当たったのですが,名目は兎も角,実は戦国末期に気仙地区でも最大の戦乱・浜田安房の乱が巻き起こっていました。その後のそれぞれの仕置きに対する一揆で土地も荒廃したとあります。その余波を代々の主君等は警戒して,守り易く,いざとなったら二日市城跡等に立て籠もれる地として気仙川河口右岸地帯に着目したのでしょう。陸路の交通が整備され,室町中期に川宿として発展し出した地であり,河口に広がる平地(奈々切付近)の開墾を通して,戦乱と慶長三陸津波震災からの復興を賭けて町作りもしたのでしょう。

 天正15(1587)年2月,本吉・気仙方面に騒乱がおこり,浜田城主浜田安房守広綱等が連合して本吉郡の岩月郷に侵入,占領する事態が起こった。領主の葛西晴信は男沢越後守等を調停役として遣わし,一応,終結したけれども,原因は定かではない。しかしながら,和解したはずであったが,天正18(1588)年春に,再び本吉郡に侵入した。この状況を「奥州葛西記」には,「浜田陣」と称した戦いと記されている。気仙沼笹が陣・鹿折での対峙から長部笹長根山越えによる撤退の間に浜田勢は衰えて二日市城下の長部湊から居城の米ヶ崎城に戻った。-中略-晴信は,この戦いで浜田勢を討ち取ったものには,手厚い恩賞を与えた。(特に浜田氏と同族でありながら鶴崎城主矢作修理重常の場合)この戦いは晴信にとって,いかに大きな事件であったかが想像される。-中略- いずれにしろ浜田安房守はその後,自らの勢力回復することなく生涯を送ったと言われている。己の力を過信したのか,時代の流れを読み違えたのか,ともかく気仙郡の逸材を失ったと言える。浜田は,晴信にとって“獅子身中の虫”と言わざるを得なかった。「浜田の乱」は,気仙郡の葛西晴信に対しての反抗であり,葛西宗家と袂を分けた重要な戦いであった。-中略-葛西晴信がこの様に,領内の反乱に対抗奮闘中であったことが,小田原参陣の機を失ったことには間違いなく,奥州仕置きで取り潰しにされるに至った理由のひとつではなかったかと思われる。(奥州葛西一族物語より)

 以前お知らせしましたように,鎌倉時代以来の葛西・千葉一党の居城のあった高田・浜田(米崎)一帯のことを小泉(つまりは古泉)と呼ぶのに対して,二日市城を中心とした一帯のことを今泉(つまりは新しく気仙の政治の中枢となった地)と称するようになったと言う説があります。今泉の語源として今白水伝説もありますが,全国各地に今泉の地があるので,この説は有力と考えられます。下の地図に示してみました。慶長三陸津波以前の立神浜(高田松原)や奈々切付近は湿地や遠浅の海の為に,絶えず地形が変化していた模様です。

 資料によっては主君の葛西氏寄りのもの,それを仕置き・征伐した豊臣秀吉寄りのもの,更に新たに領主となった伊達氏寄りのものとあることでしょう。実質1万石で1千騎の兵力を持つと文献に書かれた浜田広綱が居城を高田城から海岸沿いの米崎(浜田)に移して水軍の増強までして本吉を攻撃したのは,金華山沖の航路も開拓されての漁場拡大や対外貿易での経済的利害なのでしょうか?単なる下克上でしょうか?やはり時勢の流れだったのでしょうか?争乱の大義は何処に,陰で伊達等が操ったとか何とか憶測もあります。いずれにせよ,様々な伝承や文書が残されていますが,真実は定かでありません。


2017/02/09 12:40 | この記事のURL2017年02月

ニコン中学生フォトブック完成

3年目の取り組みになりました。ニコンさんの支援で「中学生フォトブックプロジェクト」を今年度も実施していただきました。生徒一人ひとりの復興ポスターと生徒が選んだ思い出の写真が掲載されています。明日、生徒全員に配布します。ぜひご覧ください。(sas)


2017/02/08 17:40 | この記事のURL2017年02月

学区の島々⑨・恵比寿鼻

 下の写真が2017年と2006年(鹿嶋神社例大祭)撮影の恵比寿鼻です。下の地図は約700年程以前の陸前高田市付近の海岸線を2010年度の地図に当てはめたものです。参照は気仙風土記及び陸前高田史等によります。恵比寿鼻は長部湊の入り口にあり,かつて岩礁が連なっていた所へ堤防を作り,更に埋め立てが進んで現在は水産加工場が建てられています。その上の丘に古代以来の砦,即ち二日市城がありました。
 二日市城は広田湾の西岸,西から東側に突き出した丘陵上(比高50m)に築かれた平山城(岬城)で,規模は東西450m×南北250mほど。城の北・東・南側は海に面した急峻な断崖で画し,西側の丘陵基部は堀で分断して城域を区画しています。城縄張りは東端のピークに主郭を配置し,主郭の南側に二の郭を,主郭・二の郭の南・北側の緩斜面を段郭群で処理して城中枢を構築しています。この中枢の東側には堀で仕切られた三の郭を配置し,さらに三の郭の西側は堀で丘陵基部を分断しています。現在,北側は水田に改変され,南側は港湾施設が建設されていますが,往時は広田湾に突き出した岬に築かれた要害だったと思われます。
 正和4(1315)年に気仙郡矢作村を分知された千葉広胤を祖とする矢作千葉氏,その庶流長部千葉氏が二日市城に居住したと推測されます。地図のように山中のイメージの強い矢作村とは言うものの,実は竹駒からの産金等を船出させる港の対岸に鶴ヶ崎城は建てられ居住していたのです。対岸には古代から竹駒の地にあった古舘があります。気仙川の川筋が大きく変化したために航路も北回りとなりました。従って航路の警護上,気仙川口の左岸(ここでは北側)にも砦が必要となった模様で東舘(後の高田城)が建てられ,矢作千葉氏の同じく庶流高田千葉氏が居住したと推測されます。城が建てられる程,かつての上野(和野)村は平地にも集落を拡大していたと考えられます。
 この東舘(高田城)と二日市城の間には城主が兄弟でありながら,応永20(1413)年,長部安房守慶宗は実兄の高田城主矢作(浜田)大膳亮胤慶との確執から高田城を攻撃して胤慶を自害に追い込みます。しかし同年,胤慶の子宮内少輔胤長は二日市城を攻撃して慶宗を討ち取り,弟宗胤に長郡家の家督を継がせたとあります。家督相続に関わる騒動とか仇討ちとか講談のように記載されているのですが,経済学的に申し上げるのならば領主の葛西氏が平泉から石巻へ移って統治体制が緩やかに変化した分だけ気仙各地で家来が蓄財して力が台頭したのでしょう。結果,後年の村上道慶物語の如く,川筋の変化に伴って高田と長部の間にある漁業権とか航路に係わる利権争いに巻き込まれたものと思えます。葛西氏は再び居城を登米へと,北上させました。
 さて,この二日市城の発祥はとなると,気仙郡発祥の9世紀まで遡ります。朝廷による砂金採取事業進展とともに現地人(蝦夷)との摩擦が激しくなり,紛争も度々あったとのこと。そこで坂上田村麻呂の蝦夷征討という,朝廷側から見れば一大事業により産金が容易になったという見方。安倍氏一族から貞観13(871)年金為雄と名乗る気仙郡司が登場した辺りから二日市付近の砦発生。目的は勿論,貞観震災の2年後であり当時の混乱ということもあって朝廷側による金輸送警護の一環としてでしょう。建永元(1206)年,気仙郡司金為時の二男,為近の妻の守り神として,常陸の鹿嶋神宮より二日市城内に勧請されたという記録もあります。その後に長部千葉氏の統治。一時,この鹿嶋神社は秀吉の奥州仕置きによって放置されたのですが,大二日市(小泉)家や山根(戸刺)家の尽力によって復活しました。これらの家のご先祖様もまた,所謂(いわゆる),鎌倉武士と言われる流れだったかも知れません。


2017/02/08 08:50 | この記事のURL2017年02月

飛び出すカード

静岡県の鈴木浩子様より、素敵なプレゼントが届きました。7月にも手作りしおりを送っていただいております。今回は、飛び出すカードを3年生へ贈っていただきました。細かくていねいに作られていて、心がこもったカードです。心があったかくなりました。受検に向けてがんばろうという気持ちも強くなりました。ありがとうございました!(sas)


2017/02/06 17:40 | この記事のURL2017年02月

学区の冬・風景点描

①枚目
 現在の籬島です。海からの撮影です。かつての松等はなくて岩だけの島になっています。遠く学区北部にあたります立神浜(高田松原)の高さ12.5メートルの防潮堤が連なっています。まもなく今春から再来年にかけて4万本の松の苗木が植栽されるそうです。そのうちの1万本がNPO法人・高田松原を守る会を中心とした市民等による植栽との東海新報記事です(2月3日付)。

②枚目
 三陸自動車道・高田唐桑道路工事現場付近から湖のような広田湾を撮影しました。この工事は平成30年度開通を目指しているそうです。高速道路からこのような風景が眺められるということです。要谷海岸にある,これまた12.5メートルの防潮堤もここからなら視界の妨げにそれ程はなりません…。

③枚目
 恒例,カヤの木が聳え立つ丘から太平洋を撮影しました。震災当時,長部小学校に避難していた大勢の本校生徒等も,あの日の2日後の日曜日には午前8時25分に再び発令された大津波警報が午前10時に注意報に変わった時点で,気分転換と体力作りとばかりに本校職員が引率して挙(こぞ)って周囲の丘を散歩をしました。早朝は氷点下だった気温が既に10℃を越えていました。個人持ちで最高最低温度計があったものですから日々観測していました。この丘にも立ち寄り,いつもと変わらぬ青空・カヤの木や,大きく変化した周囲をしばらく見渡しました。本校のホームページ冒頭の写真掲載は,この由縁にあります。

④枚目
 陽光に照らされて銀色に光る広田湾を要谷漁港堤防より撮影しました。あと2ヶ月足らずで新年度が始まります。様々な方にとっての,その船出の行く手に光あれと願う思いが重なったまま,たまたま通りかかった漁に出掛ける船を見送りました。操舵していたのは本校生徒の,あるお祖父さん○○さんでした…。

 文化部もあと一踏ん張りです。


2017/02/06 12:00 | この記事のURL2017年02月

学区の島々⑧・籬島

 気仙町長部漁港の入口に位置するのが籬(まがき)島です。今から256年前の宝暦11(1761)年,高田村の医者で歴史家の相原友直は,この島を次のように説明しています。
 『湊湾の東に在り。東西120間余,南北50間ほどあり。島上弁財天宮あり。元禄10(1697)年の頃,今泉金剛寺宥円法印之を創立。高上岩平にして席を設べく。屏風を立てたるが如く。釣台の釣を垂べきあり。岩間に海草を拾へきあり。遊人ここに至で家に賜ることを忘る。実に塵外の佳境と云つべし』。-『気仙風土草』より

 籬(まがき)とは,竹や柴などを粗く編んでつくった垣根の意です。今でこそ島は防波堤の築造によって外海に置かれていますが,その昔,海上に連なった岩礁は,文字通り長部浜の“海門”そのものであったことでしょう。しかも,島の上からの眺望は抜群とあって,名勝地めぐりには慣れているさしもの遊人も,しばし家に帰ることを忘れてしまうほどの絶景であったと言うことです。籬島には,籬明神がまつられていますが,これまで幾度となく地元民たちが,岩礁の上に土を運び,松を植えるなどして“緑化”に努めたとの事です。

 「桜前線の北上が漸く岩手に到達する春4月,長部漁港を根拠地にする吾が気仙町旋網船団が,其の真白な船体に大漁旗を掲げ,埠頭には乗組員の家族と地元関係者数百人の見送りを受けて一斉に港を後に出漁する様は,正に絵巻である。汽笛一斉軍艦マーチも勇ましく五色のテープをなびかせて出漁する光景は,本当に気持のいいものである。『今年も大漁して来いよー』『身体に気を付けて頑張って来るんだよー』,見送る人皆が心の中で祈り乍ら船影が遠く灯台の沖に見えなくなるまで手を振って見送るのである。…ここ長部漁港に所属する大型旋網船団6ヵ統30隻は,戦前戦後を通じて幾多の変遷を経て今日に至っているが,地域にこの漁業が創められたのは遠く明治年間で,広田湾に回遊する鰯を捕ることから現在の鰹鮪にまで発展した,漁業の中では最も近代化された漁業といっても過言ではなく…。-「長部漁港のこと」『岩手縣漁港三十年史』より

 陸前高田市はかつて,日本を代表する県内最大のカツオ・マグロまき網船団基地として,その地位を誇ってきた。船団は,春から夏にかけてカツオやマグロを追って,青森県から千葉県沖の北部太平洋を操業地域として活躍していた。-中略-市内のまき網漁業会社は10社,11ヵ統を数え,最盛期の水揚げ高は100億円にも達し,市の経済に大きく貢献してきた。しかし,1973年,79年の石油危機による重油の値上がり,77年に世界各国が打ち出した二百海里規制の動きは,まき網漁業を苦境に陥れた。-『陸前高田市史 第9卷(産業編 上)』(1997年)より

 長部漁港と言えば市内での半数以上のまき網船団が集結する母港,それは陸前高田市の「栄華盛衰」を語る上でも避けて通れないテーマです。その出船の際には小中学生も授業を割いて見送りに向かった程でした。現在100円ショップで売られているような駄菓子が5円・10円程度で売られていた時代に当時のお金で何億円もの潤いが与えられていました。市民歌になぞらえれば,その蓄財によって平和の楽土に瓦屋根の家々が連なり,文化の薫りとともに弥栄の町は発展できたのです。下の写真は,近年まで小友町三日市海上七夕や気仙町喧嘩七夕も湊地区漁協前に集まっていた様子です。
 本校にも記録上の由縁なのか,沿革誌に載せきれないでいるものがあるほど膨大な寄贈がありました。特に,昭和41年度に赴任してきた宮城先生と久納先生によるご指導で吹奏楽部が結成されましたが,それにも関わりがあったとのこと。当時の十八番(おはこ)は「校歌」は勿論,「海兵隊」「立派な青年」「軍艦マーチ」「儀仗兵」「錨を上げて」と,海をテーマとしているかのようなシリーズでした。因みに「海兵隊」は当時,岩教組気仙支部(後に中体連地区)中学校野球大会・陸上大会の入場行進曲でもありました。
 一方,長部小学校には寄付によってテレビ放送施設が設置されました。昭和43年には放送教育に関わる全国研究大会が行われてそのテーマは「家族の絆」。大会セレモニーは勿論,遠い海で働く家族等へ児童よりの作文朗読や,PTAによる座談等をスタジオで撮影し各教室のモニターテレビに送って発表していた事を,当時6年生の担当者は記憶しております。「ドミニク」等の合唱が湊地区の児童により発表され,全国にも放送されました。チリ地震津波による壊滅から復興を成し遂げて,湊地区が再建した証の一つを示したのでした。


2017/02/03 13:30 | この記事のURL2017年02月
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