気仙中学校のブログ

学区の島々⑪・一本柳御代ヶ島

 下に示されている地図は900年程前の広田湾奥付近の海岸線を,2010年度の地図に当てはめた物です。現在の地名によれば奈々切から中堰にかけて一本柳御代ヶ島があったとされています。「御代ヶ」は「冥加」,神仏のご加護を意味するそうです。写真①と②は諏訪神社・前宮司河野允幸氏です。老練町長・河野俊覚先生のお孫さんに当たります。以下は陸前高田市広報の地元学のススメです。

 …気仙町町裏地区に気仙川漁業の大漁と安全を祈願する神社があると聞き宮司の河野さんを訪ねた。住宅が密集する路地にある鳥居をくぐり,-中略-境内を目指して124股の階段を上ると,見晴らしの良い高台に社殿は構えられていた。境内から望むその大パノラマは,今泉地区はもちろん高田松原までもが一望できる。当神社は永暦元(1160)年,長部の清右衛門という人物の世話により,信州諏訪大社より御分霊。-中略-守護神として気仙川河口の一本柳御代ヶ島に勧請しました。社殿が現在の場所に移ったのは宝暦8(1758)年と伝えられています。
 諏訪神社は元来,現在の場所ではなく『一本柳御代ケ島』という島にあったというのだ。文応元(1260)年7月の大洪水により社殿は流失し,その後,洪水の度に社殿は流され,川の流れも一変し,ついには御代ヶ島も水中に没してしまった。一本柳御代ケ島は,今となっては幻の島となってしまった。
 式年大祭,例祭はともに10月27日に行われ,4年に一度の式年大祭では,手踊りや七福神,虎舞が盛大に奉納される。昔は例祭日の朝,今泉川で獲れた鮭は残らず神前に奉納するというしきたりがありました。これを『諏訪の一川曳き』と称しました。-以下略-

 地図によれば900年前は学区の殆どは漁村だったことになります。おそらくは貞観11(869)年津波以後,比較的大きな集落のあった上野(後の高田)や奈良時代以来の金山のあった竹駒の人々にとって,海と共に対岸の今泉地区は安泰を願い何等かの宗教的儀式が行われた神々の鎮まる聖地だったのではないでしょうか。弘仁元(810)に現在の泉増寺建立地に三姿森三所大権現が祀られ,正歴4(993)年に今泉天満宮が御分霊したとあります。当時の神社分霊というのは立派な建物を創るというよりも,より大自然の中にあって神々しい位置を奉るというものと聞きます。既に金山があった竹駒方面から今泉の各種神社等が分霊されて行ったという事はある程度の人口を持つ集落の竹駒や上野の民,あるいは中世の頃に鶴崎城の関係者によって開拓された聖地なのではないでしょぅか?建武2(1335)年と定応元(1460)年に三姿森三所大権現について,文明13(1481)年に今泉天満宮についての記述が残されています。この頃に二日市城の支城が築かれ,陸上交通の発達により川宿集落としての八日市(後の八日町)と新町(後の荒町)が形成されたと考えられます。
さて,南の方からの開拓もあったかも知れない根拠があります。永暦元(1160)年長部浜七嶋七明神別当生家当主清右衛門により,諏訪神社を分霊,米沢出身矢作村の明連院を別当にしておいたとあります。矢作村とありますが,当時は二日市城付近同様の,竹駒海岸傍の謂わば地域の政治経済の中心地の一つであり,清右衛門の勢力が拡大されて行ったことになります。河口付近への漁場開拓の証なのでしょうか?七嶋七明神も「7」という数字に拘らず多くの浜の多くの島にそれぞれ龍神や弁財天,恵比寿様等を奉っていると考えるべきでしょう。沖籬島(恵比寿鼻)・籬島・鵃島・野島・穴空島・笹山(大海津見神社)・石川島・跳渡島等に続いて一本柳御代ヶ(冥加)島に諏訪神社や川口神社(時代とともに位置が変化した)も双六の生家によって鎮座されたのでしょう。長部浜生家は今で言う網元のような,あるいは水軍の長のような立場だったのでしょうか。
 では今泉の民は何処に?伝説では900年前に平家の落人が登場します。忽然と壇ノ浦の戦いの68年前に内野辺りに登場したのでしょうか?一つ考えられることは,当時は山は神々の鎮まる神聖なものとしてあるものであって,例え戦(いくさ)の最中であろうとも戦場とは見なされず,山の中を追撃追走することは許されなかった筈という習わしを聞きます。(源義経は例外だったから連戦連勝だったのでしょうか?)従って今泉の内野から愛宕山周辺には他の人里を離れて,いつからか何処よりの者達が何らかの由縁で移住し,原住民の漁民に受け入れられ,ともに独立した自給自足の営みをしていたかも知れないという事です。眼前の一本柳御代ヶ島付近で長部の漁民が漁をし,対岸では平泉藤原氏の支配によって金鉱採掘がされて人夫や牛馬が往来していようとも,古代の我が国では現在の状況・感覚とは違う時空の流れがあったかも知れません。また,当時は藤原氏の支配とは言え,次の世の鎌倉時代にあるような守護・地頭の統制とは別に天皇による公地公民,寺社等による荘園制とか言うものによって何等かの治外法権も存在していたのかも知れません。確かな史実を追求しようとすれば幾多の情報が錯綜するものです。それは兎も角,かくありたいという願いと,それと思う後世の人々の想いを汲むべきと私は思うのです。
 以上のようなことをまとめますと,今泉の地とは即ち歴史的に見ると,近隣の地域からすれば新天地であり,津波・洪水等の度に何度も再開拓されて来た地ということに他なりません。そして今回の震災にも再び復興に向けて立ち上がろうとしているところなのです。

 写真②にあるように,例祭日に入り口とは別の場所に,幻の島・一本柳御代ヶ島に向けて御神旗が立てられます。河野前宮司が絶えず守ってきた慣例について「慈しみ深き」という歌(コンバース作曲「星の世界」として有名)を担当者はいつも想起します。七夕という,星祭りの盛んな当地ではありますが,今泉仲町有志によって七福神,虎舞の復活もなされようと昨年のニュースや新聞に揚げられています。なお,清右衛門の遠い遠い子孫の一人が本校文化部部長の佐々木君です。


2017/02/10 10:20 | 2017年02月