気仙中学校のブログ

大暑・気仙町けんか七夕について(文化部調査)

 今年の大暑は7月22日です。さて,文化部は夏祭りを前に気仙町けんか七夕について調査を行ってみました。
 下の地図は約900年程以前の陸前高田市付近の海岸線を2010年度の地図に当てはめたものです。参照は東京大学大学院新領域創世科学研究科による「東日本大震災被災地の陸前高田市における景観生態系史」及び今泉天満宮宮司荒木眞幸氏・諏訪神社前宮司河野允幸氏による談話等です。
 陸前高田といえば七夕が有名です。日本唯一で1200年の伝統を誇る小友町の海上七夕を始め,華やかさを競い合う高田町の動く七夕,また,平家の落ち武者が伝えたといわれる900年の伝統を持ち,飾付けた山車に太い丸太を取付けて激しくぶつかり合う気仙町けんか七夕。真夏の大イベントです。
 この地図によれば900年前は学区の殆どは漁村だったことになります。おそらくは貞観11(869)年津波以後,比較的大きな集落のあった上野(後の高田)や奈良時代以来の金山のあった竹駒の人々にとって,海と共に対岸の今泉地区は安泰を願い何等かの宗教的儀式が行われた神々の鎮まる聖地だったのではないでしょうか。
 また,豊臣秀吉によって当地が治められる際には,気仙地区の城は二日市城以外が取り壊されたとのことです。鎌倉時代以来の葛西・千葉一党の居城のあった高田・浜田(米崎)一帯のことを小泉(つまりは古泉)と呼ぶのに対して,二日市城を中心とした一帯のことを今泉(つまりは新しく気仙の政治の中枢となった地)と称するようになったと言う説があります。今泉の語源として今白水伝説もありますが,全国各地に今泉の地があるので,この説は有力と考えられます。
 高田と今泉には気仙川の川筋の変化により鮭川争いがあったそうです。正保元(1644)年,村上道慶による命がけの調停・翌年金剛寺の高田から今泉への移転があった際に,こんな話が伝わっています。その落成式を今泉と高田に分かれてやったところが,またもや紛争になり,今泉側が太鼓を持ち出し,合戦の陣太鼓ふうの打ち方をして士気を鼓舞したのが,当時全国的に庶民に普及してきた七夕祭りの囃子に取り入れられたそうです。七夕祭りは古くは宮廷と武家に限られたもので,これが民間に伝えられるようになったのは近世に入ってからのことだそうです。
 けんか七夕は昔からぶつけあっていたのではないそうです。昔は短冊を付けた笹竹の高さを競ったんだそうです。年月と共に電線が張られて高さを競うのが難しくなり,山車をぶつけ合うようになったんだそうです。以前この祭りの頭領をされていた方のお話です。
「もともと山車は高くなっててね。今より随分大きなものだった。盆の7日の迎えに祭りを行うことにも意味があってね。つまり大きな山車を目印に先祖がみんな集まって,帰ってくるんだ。津波で行ってしまったやつらも,みんなね。我々は彼らの思いも込めて,声を張りあげ,太鼓をはたき,山車をぶつけ,この祭りを次の世代につなげていくんだ。生きるという時,人は縦糸と緯糸のつながりの中で生きている。この祭りはこの地域のみならず,人が生きてきた歴史を未来へ繋いでいく大切な縦糸なんだ。」
 地図の下の写真は長部・要谷地区の七夕の朝の様子です。昭和30年8月7日に撮影されたもので,担当者の家の庭が山車作りの場所だったそうです。今泉地区では昭和45年8月15日・川開きの夜に,「次年度から(チリ地震津波等により休止していたが)けんか七夕祭りを復活させる」と保存会会長の河野和義さんが宣言をしたのを,当時本校2年生だった担当者は覚えています。その後に公会堂前で気仙町けんか七夕のステージバージョンが披露されたのも覚えています。


2016/07/19 17:30 | 2016年07月