気仙中学校のブログ

学区の島々⑧・籬島

 気仙町長部漁港の入口に位置するのが籬(まがき)島です。今から256年前の宝暦11(1761)年,高田村の医者で歴史家の相原友直は,この島を次のように説明しています。
 『湊湾の東に在り。東西120間余,南北50間ほどあり。島上弁財天宮あり。元禄10(1697)年の頃,今泉金剛寺宥円法印之を創立。高上岩平にして席を設べく。屏風を立てたるが如く。釣台の釣を垂べきあり。岩間に海草を拾へきあり。遊人ここに至で家に賜ることを忘る。実に塵外の佳境と云つべし』。-『気仙風土草』より

 籬(まがき)とは,竹や柴などを粗く編んでつくった垣根の意です。今でこそ島は防波堤の築造によって外海に置かれていますが,その昔,海上に連なった岩礁は,文字通り長部浜の“海門”そのものであったことでしょう。しかも,島の上からの眺望は抜群とあって,名勝地めぐりには慣れているさしもの遊人も,しばし家に帰ることを忘れてしまうほどの絶景であったと言うことです。籬島には,籬明神がまつられていますが,これまで幾度となく地元民たちが,岩礁の上に土を運び,松を植えるなどして“緑化”に努めたとの事です。

 「桜前線の北上が漸く岩手に到達する春4月,長部漁港を根拠地にする吾が気仙町旋網船団が,其の真白な船体に大漁旗を掲げ,埠頭には乗組員の家族と地元関係者数百人の見送りを受けて一斉に港を後に出漁する様は,正に絵巻である。汽笛一斉軍艦マーチも勇ましく五色のテープをなびかせて出漁する光景は,本当に気持のいいものである。『今年も大漁して来いよー』『身体に気を付けて頑張って来るんだよー』,見送る人皆が心の中で祈り乍ら船影が遠く灯台の沖に見えなくなるまで手を振って見送るのである。…ここ長部漁港に所属する大型旋網船団6ヵ統30隻は,戦前戦後を通じて幾多の変遷を経て今日に至っているが,地域にこの漁業が創められたのは遠く明治年間で,広田湾に回遊する鰯を捕ることから現在の鰹鮪にまで発展した,漁業の中では最も近代化された漁業といっても過言ではなく…。-「長部漁港のこと」『岩手縣漁港三十年史』より

 陸前高田市はかつて,日本を代表する県内最大のカツオ・マグロまき網船団基地として,その地位を誇ってきた。船団は,春から夏にかけてカツオやマグロを追って,青森県から千葉県沖の北部太平洋を操業地域として活躍していた。-中略-市内のまき網漁業会社は10社,11ヵ統を数え,最盛期の水揚げ高は100億円にも達し,市の経済に大きく貢献してきた。しかし,1973年,79年の石油危機による重油の値上がり,77年に世界各国が打ち出した二百海里規制の動きは,まき網漁業を苦境に陥れた。-『陸前高田市史 第9卷(産業編 上)』(1997年)より

 長部漁港と言えば市内での半数以上のまき網船団が集結する母港,それは陸前高田市の「栄華盛衰」を語る上でも避けて通れないテーマです。その出船の際には小中学生も授業を割いて見送りに向かった程でした。現在100円ショップで売られているような駄菓子が5円・10円程度で売られていた時代に当時のお金で何億円もの潤いが与えられていました。市民歌になぞらえれば,その蓄財によって平和の楽土に瓦屋根の家々が連なり,文化の薫りとともに弥栄の町は発展できたのです。下の写真は,近年まで小友町三日市海上七夕や気仙町喧嘩七夕も湊地区漁協前に集まっていた様子です。
 本校にも記録上の由縁なのか,沿革誌に載せきれないでいるものがあるほど膨大な寄贈がありました。特に,昭和41年度に赴任してきた宮城先生と久納先生によるご指導で吹奏楽部が結成されましたが,それにも関わりがあったとのこと。当時の十八番(おはこ)は「校歌」は勿論,「海兵隊」「立派な青年」「軍艦マーチ」「儀仗兵」「錨を上げて」と,海をテーマとしているかのようなシリーズでした。因みに「海兵隊」は当時,岩教組気仙支部(後に中体連地区)中学校野球大会・陸上大会の入場行進曲でもありました。
 一方,長部小学校には寄付によってテレビ放送施設が設置されました。昭和43年には放送教育に関わる全国研究大会が行われてそのテーマは「家族の絆」。大会セレモニーは勿論,遠い海で働く家族等へ児童よりの作文朗読や,PTAによる座談等をスタジオで撮影し各教室のモニターテレビに送って発表していた事を,当時6年生の担当者は記憶しております。「ドミニク」等の合唱が湊地区の児童により発表され,全国にも放送されました。チリ地震津波による壊滅から復興を成し遂げて,湊地区が再建した証の一つを示したのでした。


2017/02/03 13:30 | 2017年02月