気仙中学校のブログ

学区の島々⑨・恵比寿鼻

 下の写真が2017年と2006年(鹿嶋神社例大祭)撮影の恵比寿鼻です。下の地図は約700年程以前の陸前高田市付近の海岸線を2010年度の地図に当てはめたものです。参照は気仙風土記及び陸前高田史等によります。恵比寿鼻は長部湊の入り口にあり,かつて岩礁が連なっていた所へ堤防を作り,更に埋め立てが進んで現在は水産加工場が建てられています。その上の丘に古代以来の砦,即ち二日市城がありました。
 二日市城は広田湾の西岸,西から東側に突き出した丘陵上(比高50m)に築かれた平山城(岬城)で,規模は東西450m×南北250mほど。城の北・東・南側は海に面した急峻な断崖で画し,西側の丘陵基部は堀で分断して城域を区画しています。城縄張りは東端のピークに主郭を配置し,主郭の南側に二の郭を,主郭・二の郭の南・北側の緩斜面を段郭群で処理して城中枢を構築しています。この中枢の東側には堀で仕切られた三の郭を配置し,さらに三の郭の西側は堀で丘陵基部を分断しています。現在,北側は水田に改変され,南側は港湾施設が建設されていますが,往時は広田湾に突き出した岬に築かれた要害だったと思われます。
 正和4(1315)年に気仙郡矢作村を分知された千葉広胤を祖とする矢作千葉氏,その庶流長部千葉氏が二日市城に居住したと推測されます。地図のように山中のイメージの強い矢作村とは言うものの,実は竹駒からの産金等を船出させる港の対岸に鶴ヶ崎城は建てられ居住していたのです。対岸には古代から竹駒の地にあった古舘があります。気仙川の川筋が大きく変化したために航路も北回りとなりました。従って航路の警護上,気仙川口の左岸(ここでは北側)にも砦が必要となった模様で東舘(後の高田城)が建てられ,矢作千葉氏の同じく庶流高田千葉氏が居住したと推測されます。城が建てられる程,かつての上野(和野)村は平地にも集落を拡大していたと考えられます。
 この東舘(高田城)と二日市城の間には城主が兄弟でありながら,応永20(1413)年,長部安房守慶宗は実兄の高田城主矢作(浜田)大膳亮胤慶との確執から高田城を攻撃して胤慶を自害に追い込みます。しかし同年,胤慶の子宮内少輔胤長は二日市城を攻撃して慶宗を討ち取り,弟宗胤に長郡家の家督を継がせたとあります。家督相続に関わる騒動とか仇討ちとか講談のように記載されているのですが,経済学的に申し上げるのならば領主の葛西氏が平泉から石巻へ移って統治体制が緩やかに変化した分だけ気仙各地で家来が蓄財して力が台頭したのでしょう。結果,後年の村上道慶物語の如く,川筋の変化に伴って高田と長部の間にある漁業権とか航路に係わる利権争いに巻き込まれたものと思えます。葛西氏は再び居城を登米へと,北上させました。
 さて,この二日市城の発祥はとなると,気仙郡発祥の9世紀まで遡ります。朝廷による砂金採取事業進展とともに現地人(蝦夷)との摩擦が激しくなり,紛争も度々あったとのこと。そこで坂上田村麻呂の蝦夷征討という,朝廷側から見れば一大事業により産金が容易になったという見方。安倍氏一族から貞観13(871)年金為雄と名乗る気仙郡司が登場した辺りから二日市付近の砦発生。目的は勿論,貞観震災の2年後であり当時の混乱ということもあって朝廷側による金輸送警護の一環としてでしょう。建永元(1206)年,気仙郡司金為時の二男,為近の妻の守り神として,常陸の鹿嶋神宮より二日市城内に勧請されたという記録もあります。その後に長部千葉氏の統治。一時,この鹿嶋神社は秀吉の奥州仕置きによって放置されたのですが,大二日市(小泉)家や山根(戸刺)家の尽力によって復活しました。これらの家のご先祖様もまた,所謂(いわゆる),鎌倉武士と言われる流れだったかも知れません。


2017/02/08 08:50 | 2017年02月