気仙中学校のブログ

学区の島々⑩・田の浜(川口神社)

 上の写真は昭和42年頃の気仙川河口で手前が田の浜と呼ばれた海岸です。380年前の大洪水で気仙川の流れが変化して数十年で砂浜が形成された模様です。対岸の高田松原同様に,本校卒業生の中で「ああ青春を謳歌した浜辺だ」と思い浮かべたなら,還暦を過ぎた方の筈です!?校地の近くでありながらの人気スポットでした…。下の写真は昭和46年の秋に撮影しました。明治三陸津波からの震災復興として上野英俊方丈様のお力添えで拓かれた田の浜産業道路は当時の気仙中生にとって,これまた青春の通学路(!?)でした。ある時期は世情が不安になり,否応なく男子らが女子らと一緒に帰る事を指導されたので,文化系の部に所属する女子らは体育系の部活が終了するまで堤防の観客席で待ったものでしたが,それは青春というより要請事項の遂行ですか。

 この付近は二日市城のあった丘の北側に位置して420年程前から30年間に渡って御足軽鉄砲組の屋敷集落が軒を並べていたと数多くの文献にあります。伊達政宗公の家臣が代々気仙で唯一残った城の二日市城に配置され,55人もの兵が南部領との境目取り締まりということで家族共々住まわせられたとあります。その後,二日市城の歴史が終わったところで寛永7(1630)年に人数を24人に減じて,後に鉄砲町と言われる地に居住しました。幕末まで警護に当たったのですが,名目は兎も角,実は戦国末期に気仙地区でも最大の戦乱・浜田安房の乱が巻き起こっていました。その後のそれぞれの仕置きに対する一揆で土地も荒廃したとあります。その余波を代々の主君等は警戒して,守り易く,いざとなったら二日市城跡等に立て籠もれる地として気仙川河口右岸地帯に着目したのでしょう。陸路の交通が整備され,室町中期に川宿として発展し出した地であり,河口に広がる平地(奈々切付近)の開墾を通して,戦乱と慶長三陸津波震災からの復興を賭けて町作りもしたのでしょう。

 天正15(1587)年2月,本吉・気仙方面に騒乱がおこり,浜田城主浜田安房守広綱等が連合して本吉郡の岩月郷に侵入,占領する事態が起こった。領主の葛西晴信は男沢越後守等を調停役として遣わし,一応,終結したけれども,原因は定かではない。しかしながら,和解したはずであったが,天正18(1588)年春に,再び本吉郡に侵入した。この状況を「奥州葛西記」には,「浜田陣」と称した戦いと記されている。気仙沼笹が陣・鹿折での対峙から長部笹長根山越えによる撤退の間に浜田勢は衰えて二日市城下の長部湊から居城の米ヶ崎城に戻った。-中略-晴信は,この戦いで浜田勢を討ち取ったものには,手厚い恩賞を与えた。(特に浜田氏と同族でありながら鶴崎城主矢作修理重常の場合)この戦いは晴信にとって,いかに大きな事件であったかが想像される。-中略- いずれにしろ浜田安房守はその後,自らの勢力回復することなく生涯を送ったと言われている。己の力を過信したのか,時代の流れを読み違えたのか,ともかく気仙郡の逸材を失ったと言える。浜田は,晴信にとって“獅子身中の虫”と言わざるを得なかった。「浜田の乱」は,気仙郡の葛西晴信に対しての反抗であり,葛西宗家と袂を分けた重要な戦いであった。-中略-葛西晴信がこの様に,領内の反乱に対抗奮闘中であったことが,小田原参陣の機を失ったことには間違いなく,奥州仕置きで取り潰しにされるに至った理由のひとつではなかったかと思われる。(奥州葛西一族物語より)

 以前お知らせしましたように,鎌倉時代以来の葛西・千葉一党の居城のあった高田・浜田(米崎)一帯のことを小泉(つまりは古泉)と呼ぶのに対して,二日市城を中心とした一帯のことを今泉(つまりは新しく気仙の政治の中枢となった地)と称するようになったと言う説があります。今泉の語源として今白水伝説もありますが,全国各地に今泉の地があるので,この説は有力と考えられます。下の地図に示してみました。慶長三陸津波以前の立神浜(高田松原)や奈々切付近は湿地や遠浅の海の為に,絶えず地形が変化していた模様です。

 資料によっては主君の葛西氏寄りのもの,それを仕置き・征伐した豊臣秀吉寄りのもの,更に新たに領主となった伊達氏寄りのものとあることでしょう。実質1万石で1千騎の兵力を持つと文献に書かれた浜田広綱が居城を高田城から海岸沿いの米崎(浜田)に移して水軍の増強までして本吉を攻撃したのは,金華山沖の航路も開拓されての漁場拡大や対外貿易での経済的利害なのでしょうか?単なる下克上でしょうか?やはり時勢の流れだったのでしょうか?争乱の大義は何処に,陰で伊達等が操ったとか何とか憶測もあります。いずれにせよ,様々な伝承や文書が残されていますが,真実は定かでありません。


2017/02/09 12:40 | 2017年02月