気仙中学校のブログ

学区の島々⑤・カツカバタ

 要谷漁港は福伏地区・要谷地区・双六地区・古谷地区にそれぞれ岩壁を持っています。干潮の際には様々な岩が露出します。写真はカツカバタと呼ばれる岩礁です。少し向こうに鯨岩が見えます。
 かつて付近に要谷舘という城がありました。千年以上続くと言われる荒木一族の大本家である大上家も関係があり,荒木宮司のご先祖様はこの館にあって愛宕神社を城内に奉っていました。源氏が鎌倉に幕府を置いてからは鎌倉時代以来治めていた葛西氏を主君とする千葉氏の一派が長部氏を名乗って二日市城を居を構え,その支城として要谷舘があったとのことです。
 この館に関わって「気仙一揆」という騒動がかつてあったとのことです。1436(永享8)年の秋,気仙郡と本吉郡の間に沿岸海区権益の問題は度々館主間の摩擦の要因となって争われたそうです。せまい耕地の多い広田湾沿岸舘主にとって眼下に広がる海の資源は大事な財源であったとのこと。それは江戸時代になっても千町田と言われるほど水田の多い小友村とか,高田松原を育てた上での新田開発の成果が展開された高田村以外は同様であったとあります(気仙郡吉田大肝入文書より)。
 舘主千葉安房守宗胤に臣従していたが実は大槌・遠野等の南部勢と密約を交わしていた嶽波太郎・唐鍬崎四郎が舘を急襲し,宗胤は船で脱出し登米の太守のもとに走ったとあります。それが発端となり葛西太守満信は江刺・磐井の軍勢も動員して要谷舘を奪還し,気仙全域が混乱から回復し,戦場は大槌に移った後に終結したとあります。(「陸前高田市の歴史」細谷敬吉氏・著より)
 浸蝕されにくい古生層礫岩の磯辺が続く長部海岸の中でも取り分け岩礁が広がっているこの付近は,地元の人にしか分からない水路があります。当時の舘主もそれを利用して脱出していたのでしょうか。
いずれ鎌倉・室町・戦国期において葛西領の外縁に位置する気仙郡の騒乱は他領からの侵攻を招くおそれがあるし,敵の敵は味方とばかりに舘主間の思惑も入り乱れた頃なのでしょうか。
豊臣秀吉の奥州仕置きによって葛西氏を滅ぼした後には気仙郡からは二日市城以外の城が廃棄されたのですが,愛宕神社は大上家の裏に移り,代わって八坂神社が城跡に建てられました。
 例大祭で神輿渡御の際にはその下を通過します。郷土芸能祭組も共に通過します。元々七夕の夏祭りは地元で行われておりましたが,それを除くと江戸時代までは祭での芸能は他の地域で芸能を主な仕事をとする者を呼んで披露されていた模様です。
 特にも江戸時代は江戸を除いては,米の需要を賄えるだけの生産がそれ程なかったり飢饉だったりのせいか,全国的に人口の増減がほぼ一定に近いとあります。岩手県漁業史によりますと1780(安永9)年時点での統計資料では長部村1029人,今泉村717人,浜田村794人,勝木田村359人,小友村1479人,広田村1560人。高田村については記載がありませんでしたが,淡水漁業における力関係や今泉村同様の川宿としての規模や年貢の石高を考えるならば1000~1300人位だったのでしょうか。
 幕末以降,貨幣経済の進展と共に富が蓄えられ,人口も増えて生活にもややゆとりが増えて,自分等で豊漁・豊作を祝う機会も増したのでしょうか。


2017/01/18 14:00 | 2017年01月