2017年1月の記事
名古屋市交流
県南駅伝大会2

平松さんは、日頃から、気仙中学校の生徒たちの頑張りを、支援に協力してくださっている皆さんに伝えてくださっています。(ITに詳しいかたですので、情報の扱いには細やかに配慮して伝えてくださっています。)
修学旅行の際にも、三山中学校での、けんか七夕太鼓や豪気節、合同合唱など、元気に交流する気仙中生の様子を見に来てくださいました。
県南駅伝大会
学区の島々③・笹山
気仙町長部の要谷漁港には朱い鳥居が建つ島がいくつかありました。そのうちの一つ,「笹山」と呼ばれる島には大海津見神社が鎮座されています。島へは大潮の時に渡ることができます。笹山という名のとおり,島内は笹だらけ。荒木宮司家にご本尊が安置されています。海の神と呼ばれる,八大龍神像。山形県善宝寺から分霊されたといいます。「八大龍神」と彫られた額には作者「空海」の名が彫られています。
「当神社は長部七島七明神のうちの1つとされています。気仙町がまだ長部と呼ばれていたころ,この笹山をはじめ,穴空き島,野島,籬島,恵比寿鼻,川口神社,御代ヶ島の七つの島がありました,この島々には龍神や弁財天,恵比寿さまなどの神様が祀られていたことから,七島七明神と呼ばれるようになったのです」
とのコメントが本市広報「地元学のススメ」にあります。
当神社例祭は40年ほど前までは行われていましたが,長部の巻網漁業衰退とともに,執行されなくなりました。旧3月3日,大潮の日「浦まつり」として行われ,漁師たちが舟に大漁旗を掲げて七島七明神を巡り,大漁祈願,航海安全を願っていたものです。洋上に映える朱い鳥居は,長部の漁師たちにやすらぎを与え,大きな心の支えとなっていたのでしょう。
さて,2年前の文化祭で地元の神社調べを発表したことがあります。気仙町長部地区には神社が祠等を除いて大小19もの神社があります。しかも長部川以南で14ヶ所。市内で他の地域では気仙町今泉地区に5ヶ所,矢作町に7ヶ所,横田町に7ヶ所,竹駒町に10ヶ所,高田町に8ヶ所,米崎町に11ヶ所,小友町に17ヶ所,広田町に21ヶ所あると調べていました。海岸沿いで海がよく見えながらの標高20~40メートルの所に多いようです。おそらくは神社の名前や本尊等は時の治政者などによって後世に権威付けされたのでしょう。しかしその選ばれた位置というのには何らかの理由がある筈です。
大和朝廷が支配を始めた頃には原住民が自然崇拝をしていただろう地を神籬(ひもろぎ)にしたとされます。
「古来,日本人は自然の山や岩,木,海などに神が宿っていると信じ,信仰の対象としてきた。そのため,古代の神道では神社を建てて社殿の中に神を祭るのではなく,祭の時はその時々に神を招いてとり行った。その際,神を招くための巨木の周囲に玉垣をめぐらして注連縄で囲うことで神聖を保ち,古くはその場所が神籬と呼ばれた。」
神社を建てて社殿の中に神を祭るのは後世のことで,神聖な場所の近隣に集落を形成するなどとは以ての外の時代とのことです。武士の世の中になりつつある平安中期の頃から各地で守護神が城内等に必要になってきた模様です。安倍氏や清原氏・藤原氏が源氏と張り合う中で,取り分け平泉藤原氏は大和朝廷との関係を誇示するため数多くの神社を東北各地に分霊したとあります。(インターネット・平泉藤原氏より)
竹駒の地で金が産出され海上輸送によって多賀城や平泉へ運ばれる航路が確立していくとともに,航路警護とか物資補給とかの役割をする砦・要害が形成されてゆき,当地の原住民の中に他地域からの者ものが移住し,集落が発生したと考えられます。長部地区は出発地点の港である竹駒海岸(!)から最初の砦・要害ということになります。従って海岸線の長さと比べてみると市内で最も神社が密集していることになります。
話は飛躍するのですが,伊達政宗公は宇和島藩主になった息子の秀宗にも兵力を裂き分けた後も,更に2万人余の兵を大坂の陣に派遣したとあります。が,近隣の大名達への警戒やら慶長三陸震災復興事業やらもあり,領内に同等規模の後詰めを残していた筈です。田畑を開拓したり農林水産物の開発に努めて震災復興後は実質100万石を超える藩になったとあります。
江戸初期60万石という石高に対して,大坂の陣以後,兵の数が多すぎた仙台藩による武士の農民化政策とかで身分は変化したものと思われます。宮司や別当関係の家は舘○○とか大○○とかの屋号を持つ大きな敷地を持っていることから,元々平安鎌倉の頃から海上交通に関わる役割を持っていたのでしょう。所謂(いわゆる)鎌倉武士の流れを持ちながらも農林水産業への道を選んだことになります。
因みに治政者に従い移住してきた武士の場合とか,下克上等で武士となった場合とか,何処からか現れ氏素性は後から付けたらしい武士とかの場合とかには,元々の屋敷がないので藩から屋敷を与えられるか城等の傍で居を構えるしかなかったと考えられます。
この笹山は海辺でしかも標高10メートルですが,漁業関係者は勿論,かつての遠い縁(えにし)の産金輸送船にとっても心の灯台だった筈です。月山神社や鹿嶋神社の例大祭では直会(なおらい)が必ず笹山付近で行われています。
近くには赤磯と呼ばれる岩礁もあり,釣り客で賑わいます。本校生徒も(保護者同伴で)時々見掛けます。
「当神社は長部七島七明神のうちの1つとされています。気仙町がまだ長部と呼ばれていたころ,この笹山をはじめ,穴空き島,野島,籬島,恵比寿鼻,川口神社,御代ヶ島の七つの島がありました,この島々には龍神や弁財天,恵比寿さまなどの神様が祀られていたことから,七島七明神と呼ばれるようになったのです」
とのコメントが本市広報「地元学のススメ」にあります。
当神社例祭は40年ほど前までは行われていましたが,長部の巻網漁業衰退とともに,執行されなくなりました。旧3月3日,大潮の日「浦まつり」として行われ,漁師たちが舟に大漁旗を掲げて七島七明神を巡り,大漁祈願,航海安全を願っていたものです。洋上に映える朱い鳥居は,長部の漁師たちにやすらぎを与え,大きな心の支えとなっていたのでしょう。
さて,2年前の文化祭で地元の神社調べを発表したことがあります。気仙町長部地区には神社が祠等を除いて大小19もの神社があります。しかも長部川以南で14ヶ所。市内で他の地域では気仙町今泉地区に5ヶ所,矢作町に7ヶ所,横田町に7ヶ所,竹駒町に10ヶ所,高田町に8ヶ所,米崎町に11ヶ所,小友町に17ヶ所,広田町に21ヶ所あると調べていました。海岸沿いで海がよく見えながらの標高20~40メートルの所に多いようです。おそらくは神社の名前や本尊等は時の治政者などによって後世に権威付けされたのでしょう。しかしその選ばれた位置というのには何らかの理由がある筈です。
大和朝廷が支配を始めた頃には原住民が自然崇拝をしていただろう地を神籬(ひもろぎ)にしたとされます。
「古来,日本人は自然の山や岩,木,海などに神が宿っていると信じ,信仰の対象としてきた。そのため,古代の神道では神社を建てて社殿の中に神を祭るのではなく,祭の時はその時々に神を招いてとり行った。その際,神を招くための巨木の周囲に玉垣をめぐらして注連縄で囲うことで神聖を保ち,古くはその場所が神籬と呼ばれた。」
神社を建てて社殿の中に神を祭るのは後世のことで,神聖な場所の近隣に集落を形成するなどとは以ての外の時代とのことです。武士の世の中になりつつある平安中期の頃から各地で守護神が城内等に必要になってきた模様です。安倍氏や清原氏・藤原氏が源氏と張り合う中で,取り分け平泉藤原氏は大和朝廷との関係を誇示するため数多くの神社を東北各地に分霊したとあります。(インターネット・平泉藤原氏より)
竹駒の地で金が産出され海上輸送によって多賀城や平泉へ運ばれる航路が確立していくとともに,航路警護とか物資補給とかの役割をする砦・要害が形成されてゆき,当地の原住民の中に他地域からの者ものが移住し,集落が発生したと考えられます。長部地区は出発地点の港である竹駒海岸(!)から最初の砦・要害ということになります。従って海岸線の長さと比べてみると市内で最も神社が密集していることになります。
話は飛躍するのですが,伊達政宗公は宇和島藩主になった息子の秀宗にも兵力を裂き分けた後も,更に2万人余の兵を大坂の陣に派遣したとあります。が,近隣の大名達への警戒やら慶長三陸震災復興事業やらもあり,領内に同等規模の後詰めを残していた筈です。田畑を開拓したり農林水産物の開発に努めて震災復興後は実質100万石を超える藩になったとあります。
江戸初期60万石という石高に対して,大坂の陣以後,兵の数が多すぎた仙台藩による武士の農民化政策とかで身分は変化したものと思われます。宮司や別当関係の家は舘○○とか大○○とかの屋号を持つ大きな敷地を持っていることから,元々平安鎌倉の頃から海上交通に関わる役割を持っていたのでしょう。所謂(いわゆる)鎌倉武士の流れを持ちながらも農林水産業への道を選んだことになります。
因みに治政者に従い移住してきた武士の場合とか,下克上等で武士となった場合とか,何処からか現れ氏素性は後から付けたらしい武士とかの場合とかには,元々の屋敷がないので藩から屋敷を与えられるか城等の傍で居を構えるしかなかったと考えられます。
この笹山は海辺でしかも標高10メートルですが,漁業関係者は勿論,かつての遠い縁(えにし)の産金輸送船にとっても心の灯台だった筈です。月山神社や鹿嶋神社の例大祭では直会(なおらい)が必ず笹山付近で行われています。
近くには赤磯と呼ばれる岩礁もあり,釣り客で賑わいます。本校生徒も(保護者同伴で)時々見掛けます。
