気仙中学校のブログ

2016年9月の記事

大船渡さんご合唱団演奏会


 9月4日(日)、3年生が、リアスホールで開催された大船渡さんご合唱団演奏会に招待され、アンコールの場で合唱団の皆さんと一緒に、「空~ぼくらの第2章~」を、特別ゲストの大田桜子先生の指揮で歌いました。拍手が鳴りやまず、司会者もコンサート終了の言葉を言いだしかねていたほどでした。
 大田先生は、第一線でご活躍中の作曲家で、「空~ぼくらの第2章~」を作曲した先生です。その先生じきじきの指揮で歌うことができました。
 コンサートの後、生徒たちの席に、「空~ぼくらの第2章~」を作曲した大田先生とともに、作詞した深田じゅんこ先生が一緒にいらっしゃって、制作当時の思いをお話ししてくださいました。お二人は、この日が初対面とのことでした。「好きなアーティストは?」などの生徒たちの質問にも、親切に答えてくださいました。
 貴重な機会を提供してくださったのが、さんご合唱団の指揮者千葉賀子先生です。千葉先生は、震災当時、気仙中学校にもお勤めで、歌の力で生徒たちを元気づけたいと、詩人の深田先生と、作曲家の大田先生にお願いして合唱曲を制作していただいたのでした。その曲が「空~ぼくらの第2章~」なのです。


2016/09/05 15:30 | この記事のURL2016年09月

わたしの主張気仙地区大会

 9月1日(木)、わたしの主張気仙地区大会が有住中学校で開催されました。本校代表は河野義継さんで、「一粒の種」と題し発表しました。震災の経験やお父さんの工場の再開、職場体験から、農業の素晴らしさや自然との共生の大切さについて訴えました。河野君の発表を、皆、うなずきながら聞いていました。堂々とした発表でした。
 どの学校の生徒も、社会に対しての意見や自分の夢、希望を素直に表現し、力強く発表していました。
 県大会の代表には、有住中の大和田さんが選ばれました。


2016/09/05 13:30 | この記事のURL2016年09月

宇部杯参加(野球部)

9月3日~4日に雫石町・滝沢市を会場に行われた第6回宇部杯争奪野球大会に参加しました。5試合させていただき、たくさんのチームから学ぶことができました。今回の大会で学んだことを地区新人大会で発揮したいと思います。大変ありがとうございました‼(sas)


2016/09/05 09:20 | この記事のURL2016年09月

2年生職場体験


 8月31日(水)、9月1日(木)の2日間、2年生18名が、市内の各事業所のご協力をいただき職場体験学習を行いました。職場は、飲食店、老人福祉施設、保育園、森林組合、コンビニなど幅広く、一人一人が挨拶や積極的な姿勢が大切であることを学び、大変有意義な体験となりました。台風の影響で漁業体験を予定していた人は、海岸のごみの片付け作業も行いました。
 老人福祉施設で、研修担当の方が「何もできなくても、何もしなくてもいいんです。ここに中学生がいてくれるだけで空気が変わるんです。いてくれるだけでいいんです。たくさん来てくれるとうれしいです。」と話してくだいました。心に残るありがたい言葉をいただきました。


2016/09/02 18:00 | この記事のURL2016年09月

1年生職場訪問学習

 台風が通り過ぎたばかりの8月31日(水)、1年生が奥州市江刺区にあるTEL(東京エレクトロン株式会社)で、職場訪問学習を行いました。挨拶やマナーなど実際に仕事をする上で大切なことについて、ワークショップをとおして勉強し、半導体製造装置の製造の様子を見学してきました。お昼もご馳走になりました。バイキングでおいしくいただきました。ATG(明るく楽しく元気よく)でおなじみの東京本社の石井さんが、今年でご退職とのこと、とても残念です。大変お世話になりました。


2016/09/02 17:00 | この記事のURL2016年08月

駅伝大会

 夏休み中も猛暑の中で練習を重ねてきた駅伝部ですが、8月27日(土)に大会本番を迎え、練習の成果を発揮してきました。気仙地区中学校駅伝競走大会は住田町を会場に開催され、開会式では、本校駅伝部主将の荒木優希君が、堂々と選手宣誓を行いました。肌寒い雨の中の大会となりましたが、男女とも力強い走りを見せました。控えの選手も含め、全員が力を合わせてタスキをつなぎました。駅伝部の皆さんの最後まで力を尽くして走る姿を見て、応援している人たちは元気と勇気をもらいました。
 総合で男子は7位、女子は13位でした。男子1区を走った荒木君は、区間2位という好成績をおさめました。


2016/09/02 12:20 | この記事のURL2016年08月

老練町長・河野俊覚先生(文化部調査・今泉の先人物語等参照)

 下の地図1段目中央の写真は気仙町民のため,昭和三陸津波復興等の難事業に奔走された気仙町長,河野俊覚先生(文久3年11月21日・1863.12.31~1937.1.29)です。お家柄は八木沢商店さんのご本家にあたるとのことです。なお,この地図には現在の広田湾のことを「気仙湾」と記されています。
 今泉や赤崎の小学校教員,東磐井郡の書記,福島の裁判所に勤務する等を経て,退職後暫くは仙台にとどまり,法律関係の仕事に従事していましたが,昭和3(1928)年2月父河野真幸氏の死去により同5年郷里に帰り,永住するに至った経歴をお持ちです。
 歴代奉仕して来た今泉村社の諏訪神社社掌となり,神社奉仕に専念して居たところ,昭和7(1932)年に町長安倍冨七氏の急逝があり,その年の9月に気仙町内会一致の決議と有志の懇請をうけ,御年数え70歳の老躯をおして気仙町町長の要職に就任したとあります!
 その後半年,昭和8年3月3日午前3時突如として三陸沿岸に大津波が襲来し,長部湊部落は57戸中54戸全滅の厄にあい,大惨事となったとか。それのみか双六,要谷,福伏の諸部落もまた甚大な損害をうけ,気仙川も海水の逆流入によって大氾濫し,両側の水田も名勝高田松原も礫砂流木類で覆われ,一面の荒地と化してしまった。町政担当の職にある町長にとってその救済復旧は一大難事であったが,老躯をむちうち寝食も忘れて東奔西走,或いは県に,或いは政府へと陳情請願につとめ,心身をなげうって復興に努めたとあります。
 町長在任中手がけた仕事は公会堂の建設,高田高等女学校の県立移管,気仙郡南病院(後の岩手県立高田病院)の設置等多々あったのですが,殊にも身心を傾け,その達成に努力したのは,長部湊の砂防築堤工事と気仙川の改修工事であった様です。
 当時の気仙川は現在の様な頑丈な護岸はなく,堤防があることはありましたが,高さの低いその上が歩道となっていて,一度増水すれば忽ち川水は溢れ川ぞいの水田は一面水中に没し,中井部落の橋本あたりは人家が水浸しとなりひどいものであったようです。まして津波の襲来などで海水が逆流するに至っては其の災害は恐る可きものと考えられ,気仙川の堤防構築は町民多年の念願であった筈。それに昭和5,6,7年頃は気候不順つづきのため,作柄も思わしくなく不景気つづきで町内の生活も決して楽なものではなかったとか。そこで不凶対策として一つには,気仙川沿岸安全対策として護岸工事を実施することを決意し,これを近隣の町村と協議同意を得,高田,竹駒,横田と協同で時の政府並びに県当局に再三にわたり実施方を請願陳情した結果,政府もこれを認める処となり,気仙川改修工事工営所が設けられ,初代所長が着任したのは昭和8年の秋頃だったとあります。そうして築かれた河川工事の堤防がもとになって気仙川護岸堤防が築かれる様になったそうです。
 その頃の土木工事と言えば,すべてはモッコかつぎ,機械らしい物と言えばトロッコ位とかで,工事には多くの人夫を必要とした筈です。従って働き手は地元だけでは間に合わず,有住や世田米は勿論,東磐井方面からも人夫募集をしたそうです。
 工事は満潮時をさけ干潮時に行わねばならないことがあったから,一晩中電灯をつけっぱなし夜間も工事。農村不凶の折,この工事は現金収入の途と地域の人達には大変よろこばれたとのこと。工事は紆余曲折,国営とは言え受益町村の負担も有ったことだろうし,殊にその主軸を負う気仙町の町長にとっては相当の重責であったことと思われます。工事も次第に軌道にのり着々進み,完工も間近にせまって来た昭和11(1936)年8月,任満ち気仙町長の職を辞したとあります。
 これまで,けんか七夕に関わることから始めた文化部による今泉の歴史調査は,貞観津波や慶長三陸津波以降の昭和三陸津波までの震災復興事業を中心に展開して来ました。担当者の家が長部だけでなく,かつて今泉の大通・奈々切にもあって,今年の夏のお盆の時には,叔父叔母等がそこに住んでいた際には公会堂前で仲町組に所属して山車作りをしたり,あちらこちらに山車を引いて練り歩いたりした時の話を聞く機会がありました。10人兄弟で気仙沼の南町にも家があって,戦前から戦後まで一家が合わせて3ヶ所で暮らしていたという状況とか感覚とかは少子高齢化が進んでいる今日には馴染みにくいのですが,縁日や祭等の時には一同に会して楽しんだとのことです。8月7日の七夕祭りや8月15日の川開きに地区民が総出で集い,郷土の絆を確かめ合う心にも通じるのではないでしょうか。一町民として今後も大切にしていきたいことと思います…。
 数百年から千年以上に渡る艱難辛苦,幾星霜を経て遂に夢を実現し,今日を築き上げてきた先人達の業績,かつ今日もご活躍なさっていらっしゃる方々の郷土愛等について想いを巡らし幾多のことを学ぶことができました。そのご努力に敬意を表し,未来を担う方々に夢と希望を繋げて行きたいものと考え,新体制となった文化部活動の一段落の区切りとします。資料提供及び口述によるご協力等を下さった方々に御礼申し上げます。

-戦争の記憶(太平洋戦争)―
 地域の歴史に関わって問い合わせが幾つかございましたので、ここに追記します。

 お寺等へお参りするときに先の尖った柱状の,戦没者のお墓を目にすることがあります。また,代官所跡で尚且つ今泉保育所だった地には戦没者を奉る招魂碑と顕彰碑がありました。現在は区画整理事業に伴い一時撤去されておりますが,嵩上げ完了後再び建立されるとの事です。
 さて,太平洋戦争では当地も戦火に巻き込まれました。昭和20(1945)年7月15日・8月9~10日・8月13日に空襲を受けたという記録があります。死者は広田町の方で1人,負傷者は高田・広田・米崎の方々それぞれ1人ずつだったそうです。
 7月14日に1度目の釜石艦砲射撃が行われました。北海道空襲など一連の日本本土攻撃を開始したアメリカ海軍機動部隊は3戦艦を中心に,2重巡洋艦と9隻の駆逐艦により釜石を砲撃しました。主要な攻撃目標は日本製鐵釜石製鉄所だった模様です。この砲撃で,日本側の一般市民423人が死亡。なお,釜石湾では日本海軍221号海防艦が孤軍奮闘しましたが,第48号駆潜艇がアメリカ艦載機の攻撃で沈没したとの事。8月9日にアメリカ海軍・イギリス海軍の合同部隊が2度目の釜石艦砲射撃を行いました。参加したのは,前回と同じアメリカ海軍の任務隊の他,イギリス海軍の任務隊(軽巡洋艦2隻,駆逐艦3隻)であったとの事。この砲撃により,日本側の一般市民271人が犠牲となりました。当時,現場に居合わせた人の証言によると最初山側から順に海側に射撃していたとの事。結果としては,平地にあぶり出された人たちを待っていたのは戦闘機による機銃攻撃であったとの事。証言者は,逆に山側に逃げたため一命を取り留めたというのです。
 これらの釜石艦砲射撃に追随するように周辺地域への空襲が行われたと考えられます。

「8月13日には,高田地方も米海軍艦載機の空襲を受け,郡南(県立高田)病院,高田県是(片倉)製糸工場(後に酔仙工場となった),長部港造船所等が機銃操射をあび,県是製糸工場が火災発生との通報を受け,飛行機が去ったので気仙町警防団第2分団も出動したが,ボヤで人事には至らなかった。私は当時分団長だったので,空襲時でもあり詰所で留守番をして居った所,又もや爆音がして来たので出て見ると敵機がやって来たので「低空だ,低空だ」と云った所,駐在所の千葉美巡査が「高度何メートルか」と云うので,「高度100メートル」と云ったとたん,ダダダダッと爆撃音がしたので,私はやられたと思って,詰所に飛び込んだ。後で調べた所一発の小型爆弾が,カフェー「オトハ」の石垣を崩し,「一発は竹駒道(気仙川堤防)に落下し爆破したが,爆撃の目標は姉歯橋だったろうに的がはずれて,大事に至らなかった事が何よりの幸いでした。」(今泉・小林さん談)

「長部の空にも敵機グラマンが飛来,姉歯橋附近や長部港内の漁船も機銃掃射をうけた。防衛召集により,高田松原や,福伏の石山等に配置され,15名に鉄砲7丁,1銃当たり実弾15発。残りは竹槍,これが敵軍上陸時に対する我々の装備でした。」(長部・松田さん談)

 陸前高田市の青い目の人形「スマダニエル・ヘンドレン」は,親善の印として1927年に米国が日本各地に贈った約1万2000体のうちの1体。戦争当時の教員が校長の指示に逆らって講堂の物置に隠したという人形。戦時中は軍部の焼却命令を免れた。高さ約36センチで気仙小校長室の金庫で保管していたが,震災では金庫ごと津波に流され,びしょぬれの状態で見つかった。県立博物館が土砂の除去や脱塩処置を施している。
 同博物館の赤沼英男首席専門学芸員は「青い目の人形は戦争と震災を乗り越えた」と話した。




2016/09/02 11:10 | この記事のURL2016年09月

慈悲に富み育英に務む名僧・上野英俊方丈様

 右の写真は名僧として郷土に偉大な足跡を残した上野英俊方丈様(1847~1913.2)です。文化部による調査です。今泉の先人物語等を参照しました。仙台人名大辞書にも紹介されてあるとの事ですが,生まれは仙台の人で真言宗本寺から派遣されて歴代35世,貞観11(869)年の震災より2年後に上野(和野→高田)村の金剛寺洞に創建された歴史があり,正保2(1645)年に今泉村に移っていた金剛寺の住僧となったそうです。当時,真言宗の道場(学問所)になっており,気仙郡内の13ヶ寺と気仙沼大島の2ヶ寺,合わせて15ヶ寺からそれぞれ弟子が修業に来て,英俊方丈様の薫陶(人柄や人格人徳人品で人を感化させ良い方向に導く事)を受けることができたとあります。
 時は明治維新後の学制・税制等の改革,殖産興業等,近代的封建国家から西欧型国家に変貌させることで欧米列強進出に対抗するという時代背景によって様々な要請が当地にも押し寄せつつあった時期でしょう。
 方丈様の生前の功績として明治28(1895)年に発案された遠救社(クラッコ)の組織があるとの事です。既に明治14(1881)年に興された如意講を発展させたものとか。往時は,天候に左右され不作の連続でした。他国よりは穀類の一切が入手不能となるため,寺地の一部に備荒倉を建て,連救社と名付け,穀類を備蓄し,不作の時には,分け合って急場を凌いだとあります。寒冷気候に対処できるような品種改良等の農業改革は後世の話です。その組織は頼母子講(無尽講)の一つと考えられます。小さなグループが地域でつながり,お金を積み立て「融通」する関係を指しています。お互い顔が分かり,信頼できて,借りたものをしっかり返せる,「たすけあい」の関係なのだそうです。
 明治8(1875)年に今泉村と長部村が合併して気仙村となったとは言え,川沿いの宿場と海沿いの漁村では互いのことを別物と考えるのが双方の考え,とか根強く巷に蔓延る時期だったそうです。にも関わらず,明治29(1896)年三陸津波で被災した際には,ご本人からのお声掛けで,今泉,長部の分け隔て無く,長部湊の復旧のために気仙沼方面まで続く道路整備を震災復興事業として,田の浜産業道路整備をも加えて発案したそうです。
 明治37(1905)年から翌年にかけて,世は日露戦争で国家総動員状態の最中,既に高田道路が開通して大船渡や世田米には繋がっており,ご当人はかつての村境における柵(しがらみ)に拘らぬ度量の方とか。その延長として,今泉(気仙)松原裏の田(奈々切・木場・中堰地区等,高田道と言われた地)の区画整理を指導した農地改良の先駆者でもあったそうです。つまり,当時300年前からの慶長三陸震災復興を艱難辛苦の挙げ句,遂に実現させた発案者と言うことになります。
 御自らは身体の不遇に耐えつつ仏の慈悲を渗透させ,自寺の檀徒であるなしにかかわらず,向学の徒に奨学金を援助したり,貧民を励まし,家なき人には住居を無償で貸与したり,救済宗教の導きを日に談じ,「死者を葬るだけが仏教ではない。この世に生きる人々に,希望とよろこびを与えることこそ,真の仏の道なのだ」という,まさに仏法の信念に徹した名僧であったと記されております。気仙三十三観音の御詠歌の作者ともあります。
 英俊方丈様の慈善に心を打たれ,林野を寄進する人も多く,当時,金剛寺の持領がかえって増えたというのですから,名僧に応える良民あり,すばらしい郷土先人の偉業が偲ばれるものです。その人脈の広さや深さも加え,ご本人のお人柄によって各種の事業立案が実現できたと考えられます。合掌。


2016/09/02 11:00 | この記事のURL2016年09月
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